登記簿の空白を歩く影
午前8時半。いつものように事務所に到着し、机に置かれた郵便物をめくると、目に留まったのは一通の封筒だった。送り主は地元の不動産業者、内容は「土地の登記ができない」との相談だ。最初はよくある未登記家屋か、住所不備だろうとタカをくくっていたのだが……。
件の土地を確認した瞬間、私は思わず椅子から滑り落ちそうになった。登記簿に確かに存在するはずの地番が、まるで最初からなかったかのように「空白」になっていたのだ。
朝の珈琲と知らぬ名前
登記簿に現れた空欄の地番
「この地番、間違いないんですか?」私は書類を片手に業者へ電話を入れた。返ってきた答えは確信に満ちていた。「間違いないですよ。現場にも地番プレートついてますし、住民票もここに移ってるんです。」
どういうことだ。登記がないのに住民票が移されている?その瞬間、嫌な汗が背中を伝った。司法書士としての本能が「これはただのミスではない」と警鐘を鳴らした。
依頼人の違和感と土地の記憶
依頼人は40代の中年男性、眼鏡をかけた無表情なタイプだ。だが、「この土地、昔からずっと空き地だったんですよ」という彼の言葉が妙に引っかかった。 「昔からって、いつからです?」 「僕が小学生のころからです。変な話、誰の土地か聞いても誰も知らないんですよ。」
記録があるはずなのに、記憶が追いついてこない。私の中で、登記簿という名の紙の迷宮が、静かにその歯車を回し始めた。
地番の主はどこへ消えたのか
過去の登記簿と現在の齟齬
法務局で閉架資料を取り寄せると、昭和40年代まではしっかり所有者が記載されていた。ところが、昭和50年に「区画整理に伴う合筆処理」の記録があり、そこから突然この地番だけが消えていたのだ。
「合筆…いや、合筆されてない?空白だ…」私はサトウさんに目を向けた。彼女は無言で私の手元の資料を見つめると、スマホで何やら地図を検索し始めた。
役所に残された古地図
翌日、役所で地籍図の閲覧を申請すると、古びた青焼きの図面に「×」で消された地番がはっきりと残っていた。しかもそこには「旧所有者:立花源次郎」と手書きのメモがあった。
「立花…どこかで聞いたような…」思い出したのは、私が野球部時代に出入りしていた銭湯の名前だった。「立花湯」。あの風呂屋のじいさん、もしかして…。
不自然な売買契約と共有名義
三人の署名と一人の失踪
登記申請ができなかった理由は、過去の売買契約にあった。調査の結果、この土地は三人の共有名義になっていたが、そのうち一人が契約締結前に失踪していた。
つまり、署名が偽造されていたということだ。誰が?なぜ?そして、その失踪者とは……。
なぜこの土地が空白なのか
「おそらく、立花源次郎が最後の本当の所有者だった。そして彼の死後、相続登記をしないまま時間が流れ、権利が宙に浮いた。そうして地番の存在だけが消えていった…」とサトウさんが言った。
冷たい声だが、確かに核心を突いていた。やれやれ、、、まるでサザエさんの家にいつまでも届かない郵便物みたいな話だ。
サトウさんの冷静な推理
古い登記識別情報に仕掛けられた罠
倉庫に眠っていた登記識別情報を照合すると、驚くべきことに発行日が10年前の日付になっていた。本来ならば発行されるはずのない時期だ。
「これ、偽造されてる。…というより、他人の識別情報が上書きされてる可能性が高いです」とサトウさんがつぶやく。
字図に隠れたもう一つの通り名
さらに、地図を再調査すると、もう一つの「通り名」が過去に存在していたことが分かった。字図に消しゴムで消された痕跡が残っていたのだ。
それは、別名義で管理されていた土地を、本来の地番とは違う通称で呼び、別の相続人が取得しようとした痕跡だった。
やれやれ、、、俺の出番か
野球部時代の友人との再会
偶然にも、立花源次郎の孫が、私の元野球部のキャッチャーだった。再会の握手の中に、少しの後ろめたさと懐かしさが混じっていた。
「じいちゃんの土地、誰にも言えなかったんだ。俺、黙って処分しようとしてた」と彼は言った。シンプルな言葉が、事件を締める一言になった。
法務局の裏口での証言
証言を得て、相続人の同意も集まり、正式に登記申請が可能となった。すべては、あの登記簿の「空白」から始まったのだ。
「サトウさん、これでようやく地番が蘇りますね」 「ええ、そして私の残業も増えます」 塩対応は、相変わらずだ。
影が語る真実
十年前の失踪とその動機
失踪した名義人は、実は源次郎の弟で、借金から逃げるために名字を変えていた。地元で誰も気づかなかったのは、すでに故人だったからだ。
唯一その事実を知っていたのが、依頼人だった。彼の中で罪の意識と利益が天秤にかけられていたのだろう。
遺された遺言書の真贋
発見された遺言書は、内容こそ本物だったが、日付が改ざんされていた。司法書士として、それをそのまま受け取ることはできなかった。
結局、家庭裁判所の検認を経て、公正証書遺言が正式に優先されることになった。真実は、法と手続きの中に宿る。
空白を埋めた最後の登記
事件の着地と登記完了
数週間後、私はようやく登記申請を完了させた。システムに表示された、あの地番の復活の瞬間、胸がじんわりと熱くなった。
過去と現在をつなぎ、空白だった土地に、新たな「記録」が生まれた。
それでも続く日常の雑務
「次の相談、未登記家屋が6棟並んでるやつです」 「やれやれ、、、」私は背もたれに沈み、天井を仰いだ。 事件が解決しても、人生は変わらない。ただ、また今日も、誰かの空白を埋める仕事がある。