はじまりは一本の電話だった
境界確定の相談が持ち込まれた朝
それはどんよりと曇った月曜の朝だった。事務所の電話が鳴り響き、いつも通りサトウさんが素早く取った。「土地の境界について相談したい」とのこと。最近こういう案件が増えている。市が筆界特定制度を紹介するポスターをばら撒いた影響かもしれない。
依頼主は町の外れにある空き家の隣地の所有者で、境界杭が抜けているという。しかも、隣の土地には「正体不明の男」が出入りしているという話だった。うさんくさいが放っておくわけにもいかない。
依頼人の証言に違和感を覚える
訪ねてきたのは、70代の男性だった。声に張りはあるが、何かを恐れている様子が見て取れた。「あの家はもう誰も住んでないはずなのに、夜な夜な灯りがついていてね……」
聞けばその隣家は20年ほど前に相続されたが、相続登記は未了のまま放置されていたという。登記簿上は亡くなった父親の名義のまま。こういう時代遅れの事情が絡むと、たいていややこしい。
隣地の所有者は不在
境界杭のずれが示すもの
現地に赴くと、たしかに境界杭は曲がり、少し内側に押し込まれていた。測量機器を使えばすぐにわかるが、それ以上に気になるのは、土の上にうっすらと靴跡があることだった。
「誰かが最近、出入りしてるわけですか?」と聞くと、依頼人は震えるようにうなずいた。「顔は見ていません。ただ、あの家の境界の内側に、誰かが立っていたんです」
サトウさんの冷静な一言
「シンドウ先生。これ、ただの地籍調査じゃ終わりませんね」
サトウさんが冷静に言い放つ。彼女がそう言う時は、だいたい厄介な展開になるときだ。いや、厄介にしてるのは俺のうっかりかもしれないが……。
古い地積測量図と登記簿の食い違い
昭和時代の筆界特定の痕跡
法務局で取り寄せた地積測量図を見ると、現在の現況と微妙に食い違っていた。特に隣地の北東角。杭の位置が数十センチずれている。
測量士の知人に図面を見せたところ、「昭和50年頃に確定された筆界っぽいね」とのこと。だが、その際の記録が役所にも残っていない。まるで“何か”を隠しているような曖昧さだった。
地元の測量士との会話
「あのあたりはね、昔は養子縁組が多くてさ。相続関係も複雑だったからねぇ」と測量士のタカハシが口を滑らせた。やはり、相続絡みの事情があるらしい。
「もしかして、隣家にはまだ“相続されてない何か”があるってことですか?」そう聞いたとき、彼の顔が一瞬こわばった。
境界の内に現れた男
名乗らぬまま現地に現れた影
数日後、現地に再度訪れたときだった。境界の内側に、一人の男が立っていた。年の頃は40代後半、背は高く、無精ひげを生やしていた。
こちらに気づくと、彼は無言で会釈をし、家の中に消えた。声をかけようとしたが間に合わなかった。「あの人……誰?」とサトウさんが珍しく声を低くした。
言い残した「これは俺の土地」の意味
次の日、ポストに一通の紙が投函されていた。「ここは俺の土地。父の形見だ」
登記簿にはその名はない。だが、戸籍をたどれば、そこにいたはずの「次男」の存在が浮かび上がった。彼は20年前、行方不明になったと記録されている。
戸籍と登記の交差点
名義人の兄弟に隠された秘密
戸籍を丹念に調べていくと、亡くなった父親には2人の息子がいた。長男が現在の依頼人、そして次男は20年前に家を飛び出して消息不明になっていた。
「遺産はいらない。ただ、あの家と土地だけは自分のものだと信じていたようです」と、かつての隣人が語った。境界の内に「戻ってきた」男の正体は、彼だったのだ。
「死亡届未提出」という現実
行政的には彼は“生きている”。だから相続は未了、土地も名義変更されない。まるで時間が止まったかのように。
「やれやれ、、、結局、人の心の境界の方が厄介ってことか」と、思わず声が出た。サザエさんでいえば、波平がカツオに雷を落としたあと、誰も後始末しないような状況だ。
全ては「境界」の定義から始まった
公図のズレに隠された意思
公図上では単なる線一本。だが、その線が人の人生を分け、孤独を育て、争いを生む。改めて土地の重さを思い知る。
「登記だけでは人は救えませんね」サトウさんの言葉に、またぐうの音も出なかった。
筆界と所有権界の違いに気づいたとき
筆界は境界を示し、所有権界は人の意志を表す。そして今回の“事件”は、その両方が曖昧だったからこそ生じた。
俺たちはそのわずかな隙間に踏み込み、誰かの人生に灯りをともしたのかもしれない。
「いた男」は誰だったのか
20年前に行方不明になった次男
再び男が現れることはなかった。ただ、その家には線香の匂いと、畳に寝転んだ誰かの体温がかすかに残っていた。
「あの人は、自分の居場所を確かめに来ただけだったのかもしれませんね」サトウさんがぽつりとつぶやく。
確定された境界が語るもの
最終的に、依頼人の同意のもと、筆界確認書は取り交わされ、登記も更新された。だが、そこに「男の名」はなかった。
それでも彼の心には、確かに“内側”にいたという証が残っているはずだ。
事件は土地に刻まれていた
最後の登記で全てが終わる
最後に登記完了証を手渡したとき、依頼人はぽつりと「弟には悪いことをした」とつぶやいた。何も返す言葉は見つからなかった。
俺たちはそのまま軽く会釈をして、車に戻った。境界の線のように、答えの出ない想いもある。
そして、いつもの静けさに戻る街
夕暮れの道を帰りながら、俺は思った。「次の事件は、もう少し軽めがいいな」
サトウさんは助手席で何も言わず、ただスマホをいじっていた。画面には「土地家屋調査士」のサイト。まさか転職活動か?