不審な依頼人
梅雨も明けきらぬ六月の朝、私は事務所のコーヒーに口をつけた瞬間、ドアが音を立てて開いた。スーツに身を包んだ中年男性が、やや緊張した面持ちで名刺を差し出してきた。「所有権移転登記をお願いしたくて」と、その口調は滑らかだった。
だが、私の目は彼の手元にあった書類に釘付けになった。なぜなら、それはあまりに整いすぎていたからだ。
完璧すぎる提出書類というのは、どこか人工的な香りがする。経験上、それは何かを隠そうとする人間の匂いだった。
午前十時の訪問者
「必要書類はすべてそろえました」と彼は言った。確かに委任状、登記識別情報、住民票、印鑑証明書まで完璧だった。ただ、そのどれにも“人の気配”が薄かった。
書類というものは、本来雑なものだ。記名押印の位置がずれていたり、字が歪んでいたり。それなのに、すべてが均一だった。まるでサザエさんの背景のように、繰り返される壁模様のような不自然さが漂っていた。
そして私は、サトウさんの顔を見ると、彼女もわずかに眉をひそめていた。
委任状の違和感
「これ、委任する側の押印、ちょっと変ですね」サトウさんが呟いた。彼女は元銀行員らしく印鑑の違いに鋭い。私も手元にあった過去の記録と照合してみたが、確かに同じはずの印鑑が、わずかに違う。
角度の違い?朱肉の差?いや、それ以前に、そもそもこの委任状、筆跡がどこか作られたような、、、
やれやれ、、、朝から面倒な案件の予感である。
サトウさんの直感
「これ、本人が書いたものじゃありませんよ」サトウさんの一言に、私はようやく本格的に調査を始める決意をした。誰かが“代理人ではないのに代理を装っている”のだ。
委任を受けたという人物は、現れなかった。電話番号も繋がらない。まるで“影の代理人”だった。
ここからは、司法書士の腕の見せ所である。と言いたいが、正直、胃が痛くなる思いだった。
記名押印は本物か
司法書士として最も怖いのは、登記が通ってから偽造が発覚するケースだ。それを防ぐには、今ここで止めるしかない。
私は市役所に連絡し、印鑑証明の照合申請を提出した。サトウさんは既に、本人の住むというマンションに足を運んでいた。
「誰も住んでないって、管理人さんが言ってましたよ」彼女の報告は、私の懸念を確信に変えた。
電話での確認に沈黙
記載された委任者の番号にも電話してみたが、「現在使われておりません」のアナウンスが虚しく響く。
サトウさんがため息をつきながら、「これはもう、登記申請に進めたらダメですね」ときっぱり言った。
司法書士が“止める勇気”を試される瞬間である。
所有権移転の申請書類
翌日、依頼人が再び来所した。「申請、進みましたか?」と当然のように尋ねてきたが、私は即座に「保留です」と答えた。
「なぜですか?」と彼は声を荒げたが、その動揺は演技ではなかった。むしろ、“そこまで確認してくるとは”という驚きだった。
私は提出された書類をすべて見せ、「この委任状、無効の可能性が高いです」とだけ伝えた。
添付された登記原因証明情報
登記原因証明情報まで偽造されているケースは稀だが、今回はそれが十分にあり得ると感じていた。
売買代金の振込記録もなく、契約書も妙にきれいすぎた。まるで漫画のワンシーンを模したような完璧さは、逆に疑念を呼ぶ。
「これは、、、怪盗キッドが残す偽の契約書みたいだな」私がぼそっと呟くと、サトウさんは珍しく小さく笑った。
なぜか揃いすぎた書類一式
必要書類のすべてが一度に揃ってくるのは、普通の売買ではまずあり得ない。代理人が動く場合、何度かのやり取りがある。
しかしこの件では、最初から全てが封筒にまとめられていた。それが逆に、“何かを隠している”という証拠になっていた。
完璧な偽装は、雑な真実よりもすぐにバレるのだ。
調査開始
私は登記簿を数年前まで遡って確認することにした。すると、同じような代理人名義で別の登記が行われていた記録があった。
しかもその登記は、別の司法書士が担当しており、すでに抹消されていた。奇妙な一致だった。
「この代理人、前も同じことやってますね」サトウさんの声が淡々と響いた。
過去の登記簿との矛盾
対象物件の過去の所有者が、実は現在行方不明だという情報も出てきた。登記は生きているが、実体の所在が不明。
つまり、今の委任状は“生きている名義を使っただけ”のものかもしれない。
法的には通ってしまうかもしれないが、倫理的にはアウトだ。いや、それ以前に犯罪だ。
不在の代理人
結局、その“代理人”は最後まで姿を見せなかった。おそらく存在しない人物なのだろう。
「影武者すらいない、、、」私はそう呟いたが、サトウさんはパソコンの画面から目を離さず、「むしろ影しかなかったんですよ」と返した。
名探偵コナンなら、ここで「真実はいつも一つ」と言うだろうが、司法書士は黙って法の重みで潰すだけだ。
委任の裏に潜む意図
結局、依頼人はその後現れなくなった。おそらく、こちらが動かないと悟ったのだろう。
だが、その影にさらに大きな目的がある可能性がある。不正登記のパターン調査を司法書士会に報告し、私は静かにPCの電源を落とした。
「今日も一件、影を消したな」そう呟きながら、私はコーヒーを飲み干した。
本人意思確認のトリック
やはり本人確認は書面だけでなく、直接のやり取りが重要だ。それを怠れば、こういった“影の代理人”に利用される。
電話、訪問、照会。それらの積み重ねが真実を照らす鍵になる。
サトウさんのような直感のある人材の存在も、司法書士にとっては宝だ。
似たような事例の影
同様の事案が数件報告されていたことを思い出し、私は全国の司法書士掲示板にこの情報を投稿した。
誰かがこの“影の代理人”を追い詰めてくれるかもしれない。私はそのきっかけを作っただけだ。
やれやれ、、、自分が探偵気取りになっていることに、少しだけ笑えてきた。
事件の全貌
最終的に、依頼人が提出した住所は架空であることが判明した。委任状の委任者もすでに他界していた。
つまりすべては、死者の名義を使った偽装登記だったのだ。未遂で止められたのが、せめてもの救いだろう。
「やれやれ、、、本当に油断も隙もない世の中だ」私は椅子にもたれて天井を見上げた。
本物の委任者の沈黙の理由
彼の家族に連絡をとったが、「亡くなったことは知らせてなかった」と言われた。だから死亡届も出ておらず、登記簿は生きていた。
名義は生きていたが、本人は亡くなっていた。つまりそこに付け込んだ者がいたのだ。
静かな沈黙の裏に潜む闇の深さを思い知らされた。
その後の余韻
「シンドウさん、次の相談者が来てます」サトウさんが塩対応で声をかけてきた。
「さっきの件、司法書士会にも報告しました。文面、チェックしてください」その声に、私は現実に引き戻された。
事件は一件落着だが、仕事は山積みだ。やれやれ、、、まったく休まる暇もない。
委任とは信頼の証だと気づく日
委任とは、他人を信じることだ。それを悪用された今回のような事例を見ると、我々の仕事の重さを思い知らされる。
「信頼される司法書士でいたいですね」とサトウさんが言った。
私は小さくうなずき、次の案件フォルダを手に取った。