朝の静けさに鳴る電話
事務所のルーティンを壊した一本の呼び出し
朝の事務所には、まだ誰の気配もない静けさが漂っていた。カーテン越しに差し込む陽の光と、コーヒーの湯気だけが僕を包んでいた。そんな中、突然電話のベルがけたたましく鳴った。
「もしもし、シンドウ司法書士事務所です」眠気を引きずる声で受話器を取ると、沈黙のあと、男の低い声が響いた。「名義を、貸した相手が失踪したんです」
一気に覚醒する頭。これはただの相談ではなさそうだ。僕はそっとコーヒーを置いた。
他人名義の不動産登記
名義人と連絡が取れないという相談
電話の主は40代後半の男、川島と名乗った。不動産投資を持ちかけられ、知人のために一時的に名義を貸したのだという。だが、最近その知人と連絡が取れなくなり、不審な動きが登記簿に現れ始めたという。
「これ、法律的に大丈夫でしょうか」
不安を隠そうともしない川島に、僕は「名義貸し自体が危険行為ですよ」とだけ答えた。
法律の世界では、名前ひとつが人を飲み込むことがあるのだ。
ふと、後ろで気配がして振り返ると、サトウさんがすでに出勤していた。
サトウさんの冷静なツッコミ
「そもそも、何で他人の名義にするんですか」
「バカじゃないんですかね」
パソコンを立ち上げながら、サトウさんが冷ややかに呟いた。「他人に名義貸して、何かトラブったら自分に全部ふりかかるって、ちょっと考えたらわかるのに」
うっ、、、その通りすぎて言葉が出ない。僕も若い頃、野球部の後輩にバット貸して折られたのを思い出した。
名前はバットより重いのだ。
「調べます?」と、サトウさんが眉ひとつ動かさず尋ねた。
依頼人の表情に潜む違和感
沈黙が多い男の証言
後日、事務所にやってきた川島は、見るからに落ち着きのない男だった。目を合わせない、手元ばかり見ている、そして答えに時間がかかる。
「本当に…あいつを助けたかっただけなんです」そう繰り返すが、その声に感情はなかった。
僕の脳裏に、どこかで見たキャッツアイの“変装した依頼人”が浮かぶ。
直感が告げていた。この依頼にはまだ何かある。
貸された名前の代償
過去の経緯と現在のトラブル
登記簿を閲覧すると、川島の名前で登記された物件が複数存在していた。その中には、一度も本人が足を運んだことがない土地まであった。
「こ、これは知らない…」川島は言葉を詰まらせたが、顔色が明らかに変わった。
「本当に?」とサトウさんが刺すように聞く。
そして、僕は気づいた。登記簿の末尾に、小さく記された追記の存在に。
登記簿に現れた謎の追加担保
無断で押された印鑑の正体
そこには新たに付け加えられた担保設定があった。担保権者は聞き覚えのない不動産業者。しかも印影は、川島の印鑑とは微妙に異なる。
「印鑑証明出せますか?」と尋ねると、川島はしばらく沈黙し、ゆっくりと首を横に振った。「…もう期限切れで」
嘘だ。印鑑証明が手元にないということは、誰かが“本人になりすまして”登記を動かした可能性がある。
やれやれ、、、名義貸しは事件の香り
元野球部のカンが騒ぐ
「やれやれ、、、やっぱり来たか」僕はため息をつきながら、古い野球部時代の感覚を思い出していた。ここで動かないと、一生悔いが残る。
あの時、バント失敗でノーアウト満塁を潰した。でも、最後にホームランを打てたのは、諦めなかったからだ。
事件も同じ。泥臭くても進むしかない。
「動くぞ、サトウさん」
「もう動いてます」
怪しい司法書士の存在
業界の裏側に潜む闇
川島の物件を扱った過去の登記に共通する名前、それは地方で密かに悪評のある司法書士・黒田だった。書類の作成はギリギリ合法、だが実態はペーパーでの大量登記処理。
「業界の面汚しですね」と、サトウさんがプリントアウトした書類を投げる。
そこには黒田の署名と、複数の委任状。
「委任してないって言ってたよね、川島さん」
サトウさんの徹底調査
登記情報と不動産取引履歴の突き合わせ
登記情報と過去の不動産取引を突き合わせた結果、驚くべき事実が浮かび上がった。複数の名義貸しによる売買が、数ヶ月の間に繰り返されていたのだ。
しかもその全てに、黒田司法書士が関わっていた。事務所は既に廃業していたが、裏では別人名義で動いているという噂もあった。
「これは…司法書士界のルパン三世かもしれませんね」
サトウさんが苦笑した。
契約書に残された僅かな違和感
押印位置のズレが導く真実
ある契約書を見たとき、サトウさんがふと手を止めた。「この印影、ちょっとずれてます」
見ると、川島の印鑑だけ僅かに傾いていた。
普通は真っ直ぐに押されるべき位置。これは他人が真似して押した可能性が高い。そしてその「ズレ」がすべてを繋げた。
「この事件、名義だけじゃなく、印鑑すら借り物だったのかも」
名義人の行方
田舎町の空き家に隠された証拠
川島の話に出てきた“知人”の最後の居場所を突き止めたのは、Googleストリートビューだった。小さな田舎町、廃屋となった一軒家。
現地調査を依頼すると、そこには使い終わったコピー機と、複数の印鑑が雑多に捨てられていた。中には川島のものと酷似した印も。
決定的証拠を得たことで、警察に連絡を入れる。
ついに明かされた名義の真犯人
「名前」を利用した詐欺の構図
捜査の結果、黒田元司法書士と川島の知人がグルだったことが判明した。川島の名前は利用され、物件は次々と売買に使われていた。
川島自身も、その一部を知りながら黙認していた。罪悪感と現実逃避が、彼を“被害者”のように見せていたのだ。
「貸したのは名前だけじゃなかった。正義感も、誇りも、全部持っていかれた…」
川島の声は震えていた。
警察の介入と依頼人の告白
「借金から逃げたかったんです」
川島はその後、警察により任意同行された。罪状は詐欺幇助。実刑は免れたものの、社会的信用は地に落ちた。
「あの日、借金取りから逃げる方法がこれしかないと思ってしまったんです…」
そう語った彼の背中は、まるで影法師のように薄く見えた。
貸した名前の重みを、最後に彼は理解したのかもしれない。
シンドウのつぶやきとサトウさんの視線
「やれやれ、、、登記ってのは時々、魂ごと持ってかれるね」
事務所に戻ると、いつもの椅子がやたらと重く感じた。事件は一応の決着を見たが、僕の胸の中には釈然としない何かが残っていた。
「やれやれ、、、登記ってのは時々、魂ごと持ってかれるね」
呟くと、サトウさんが書類を片手に無表情で言った。
「魂が軽い人ほど、簡単に名義を貸すんですよ」
僕はただ、コーヒーをすすった。