境界の向こうに消えた饅頭
それは、梅雨明け前のじめじめした朝だった。机の上の登記書類を睨んでいた俺の前に、ひとりの老人が現れた。手には小さな紙袋をぶら下げ、眉間に深いしわを寄せていた。
「隣の奴がな、ワシの土地で饅頭を食いやがったんだよ。しかも消えたんだ」
何を言ってるのか分からない。が、こういう理屈に合わない話ほど、あとから厄介なことになるのがこの業界の常だ。
朝イチの訪問者と冷めたお茶
その老人、名を田代という。昭和のまんがに出てきそうな、いかにも「昔ながらの頑固爺」という風貌だ。サトウさんが出したお茶には手をつけず、俺の顔ばかり見ていた。
「ここが司法書士のところか? 隣のタケノが境界線を越えとるんじゃよ」
サトウさんが「また面倒くさそうな人きましたね」という目で俺を見る。やれやれ、、、まだ朝の9時だ。
隣の土地と熱々の饅頭の矛盾
話を聞けば、田代は隣の住人が自分の土地を無断で使っていると怒っているらしい。曰く「饅頭を食っていたのが境界線の内側だった」そうだ。
しかも、その饅頭が忽然と消えたのだという。まるで「怪盗饅頭」とでも言いたげな口ぶりだった。
だが、証拠が無い。田代が見たのは、確かに饅頭がそこに置かれていたという事実だけだった。
「登記簿上はこっちの土地なんだよ」
田代の主張は「あそこはワシの土地」だが、登記簿上の地番は曖昧で、境界杭の位置もあやふやだった。よくある「未確定地目」だ。
「タケノのやつは昔から狡猾でのう。ワシの畑に勝手に杭を打ち直しよった」
まるで怪盗ルパンが夜な夜な杭を差し替えたような言い草だ。だが、話は次第に現実味を帯びてくる。
サトウさんの冷ややかな見解
「その饅頭って、こしあんですか」サトウさんが突然問いかける。
田代は「あたりまえじゃ。男はこしあん」と誇らしげだ。サトウさんはうなずきつつも、冷めた声で言った。
「つまり、それを盗んだ人間がいると?」
失踪した和菓子と謎の赤い杭
現場に行ってみると、確かに杭が赤ペンキで塗られていた。だがその杭、明らかに最近打たれた形跡がある。
「この赤、タケノの家の塀と同じ色です」
サトウさんはスマホで撮影した塀のペンキと杭の赤を比較して見せた。さすが、冷静沈着な事務員。
誰がいつ境界を動かしたのか
問題は、いつ誰が杭を移動させたかだ。現場の草の折れ方や、杭周辺の土の柔らかさから、昨夜深夜に作業があった可能性が高い。
「饅頭がなくなったのは何時頃ですか?」とサトウさんが訊くと、田代は「午前5時半」と即答した。
その時間、タケノは朝ランニングに出かけていたというが、近所の防犯カメラが彼の嘘を暴いた。
遺言書の伏線と饅頭屋の家系図
さらにややこしいのは、その土地が実は田代の父が他人名義で買った「裏土地」だったという事実。遺言書にそのヒントが残されていた。
しかも田代の一族は、かつて有名な饅頭屋「紅葉堂」の創業家。失われた家系図が意味を持ち始める。
「タケノはその跡地を狙っていたのかもしれません」とサトウさんが静かに言った。
土地家屋調査士の過去の測量データ
古い測量図が法務局に保管されていた。俺が野球部時代に使っていたスライディング技術ばりに、資料室で泥臭く探し当てた。
その図面によれば、赤杭の位置は本来の境界から2メートルもズレていた。
決定的証拠だ。俺の手に汗がにじんだ。
うっかり印鑑を忘れた午後の逆転
そのままタケノ宅へ向かい、境界確定の話をしようとしたが、俺は重大なミスを犯した。
「印鑑、、、忘れた」
「まじで司法書士やってて大丈夫ですか」とサトウさんに言われ、俺は無言で車に戻った。
やれやれ、、、この土地も甘くない
午後の再訪で、ついにタケノは境界線の移動を認めた。饅頭を盗んだのも彼だった。「つい出来心で、、、」と白状した。
やれやれ、、、饅頭ひとつでこんなにもこじれるとは。
その後、元の杭の位置に戻され、登記の修正手続きも完了した。
手ぬぐいの裏の真実
最後に田代が差し出した饅頭の紙袋には、小さな手ぬぐいが入っていた。その裏には「昭和三十年 紅葉堂 境界確認済」の印。
まさかの証拠。昔の商家は土地の確認に店名の印を入れていたという。
それを見た俺は、こっそり感動していた。
シンドウの一言が境界を動かす
「書類の境界は変えられるが、人の心の境界は簡単には動かない」
そんな気取ったセリフを口にしながら、俺は筆を走らせた。
田代は満足げに頷き、饅頭を一個俺にくれた。
真犯人は甘党か策士か
タケノの動機は「昔から田代に馬鹿にされていたから」という感情的なものだった。
しかし、それだけで土地を動かすにはリスクが大きい。裏には地価高騰の噂もあった。
策士か、ただの甘党か、、、真相は闇の中だ。
最後に残された一個の饅頭
事務所に戻ると、サトウさんが黙って机の上に饅頭を置いた。
「これは?」と訊くと、「田代さんが置いていきました。こしあんです」
俺は黙ってそれを頬張り、ふとつぶやいた。「やっぱ、こしあんが一番だな」