押印された委任状
朝のコーヒーに口をつける間もなく、事務所の扉が音を立てて開いた。小柄な女性が差し出したのは、土地の名義変更に関する委任状。印鑑が押されたその紙を見た瞬間、背中に薄いざわつきを感じた。
何かが変だ。字が整いすぎている。朱肉の濃さも異様に鮮やかで、不自然な光を放っていた。
朝一番の来客
女性は「父の代わりに来ました」と名乗った。病床にある父に代わって手続を進めるというが、委任状の印鑑は実印で、捺印の場所も整いすぎていた。違和感が胸の奥に沈殿した。
「お父様は印鑑登録証明書をお持ちでしょうか?」と問うと、彼女は躊躇いながらバッグを漁った。
不自然な筆跡
委任状に記された文字は、一見達筆だが、どこか現代的な機械的な均質さがあった。私は一旦コピーを取り、サトウさんに「これ、見てみてくれる?」と頼んだ。
彼女は眉一つ動かさず、静かに「印鑑が浮いてますね。朱肉が濃すぎます」と言い放った。やれやれ、、、これはまた面倒な案件だ。
依頼人の沈黙
女性はその後も多くを語ろうとしなかった。身分証明書の提示を求めると、どこか怯えたような目をした。まるで、自分が他人の人生を借りているかのように。
「委任状に不備がある場合、登記は受けられません」と伝えると、彼女は唇を噛み締めて黙りこんだ。
誰のための委任か
委任状の内容は、土地を妹名義に変更するというもの。しかし聞けばその「妹」は十数年前に家を出て以降、音信不通だという。これはいよいよ香ばしくなってきた。
正当な委任か、それとも偽装された手続か。司法書士としての感覚が警告を鳴らし始めていた。
サトウさんの違和感
「シンドウ先生、これ、プリンターで押印したっぽいです」
サトウさんはスキャンして拡大した印影を指さし、微細なドットパターンを示していた。インクジェットプリンタ独特の粒子の並び。なるほど、犯人は現代のテクノロジーを侮ったらしい。
登記申請書の裏側
一見して整った申請書類。しかしよく見ると、押印のページだけ微妙に紙質が違う。やけに滑らかで、光沢もある。何かが仕組まれている。
私は数年前に関わった登記案件を思い出した。そういえばあの時も、印鑑だけが「浮いて」いた。
二重に見える印影
角度を変えると、朱肉の中にうっすらと二重の輪郭が見えた。これは完全に「重ね捺し」の痕跡。誰かが別の印鑑で真似をして押したのだろうか。
いや、これはもしかすると「印影の切り貼り」かもしれない。つまり画像合成だ。まるで探偵漫画に出てきそうな手口だ。
昔の記録との照合
古い委任状を引っ張り出してきて、照合を行った。結果は明白だった。同一印鑑ではあるが、押印の揺れ方、インクのにじみ方が異なる。つまり、今回の印影は「静的すぎる」。
生身の手から押された印ではない。仮面を被った証だった。
浮かび上がる仮名の名義人
戸籍をたどるうちに、とある奇妙な名前が登場した。「藤川まどか」。その名前はどの戸籍にも存在せず、ただ申請書類の中にだけ現れていた。
まるでキャッツアイの幻の絵画のように、実体のない存在だった。
戸籍にない人物
本籍地を追い、役所に照会をかけたが、そんな人物はどこにも存在しなかった。つまり、誰かが実在しない人物になりすまし、登記を利用しようとしていたのだ。
これは詐欺どころか、文書偽造に該当する重大な犯罪である。
遺産分割協議の怪
調査を進めると、10年前に亡くなった男性の遺産を巡る協議書が出てきた。その中にも、同じく「藤川まどか」の名があった。これは偶然では済まされない。
複数の登記で同じ偽名が使われているのだとすれば、裏には大きな闇が潜んでいる。
動き出す司法書士の調査
私は近隣の土地家屋調査士に連絡を取り、過去の測量記録を確認した。境界確認の署名にも「藤川まどか」の筆跡があった。
全てが一人の手でなされていたとしたら、それはもはや個人レベルの犯罪ではない。
土地家屋調査士との連携
古参の調査士は「ああ、その名前、昔からちょいちょい出てくるんだよね」と呟いた。記憶に頼る証言だが、状況証拠としては強力だ。
事件はつながりを見せはじめた。
過去の登記簿からの手がかり
私は法務局で十数件の登記簿を閲覧し、いくつかの不審な案件に共通の傾向を見出した。すべて「遠方からの申請」「なりすましの気配」「登記完了後の転売」がセットだった。
まるでルパン三世のように痕跡を残さない犯罪者が、この町にも潜んでいた。
静かに笑う男
調査の過程で辿り着いた一人の男がいた。名は「大川」。宅建業を営んでいるが、裏では古い土地の転売屋として知られていた。
彼の眼鏡の奥の目は笑っていた。だが、その口元はわずかに歪んでいた。
押印の真意を探る
「印鑑なんてね、写せば済むんですよ」
彼はあっけらかんと言った。それが悪びれもしない悪人の口ぶりであることに、寒気を覚えた。これが“罪の軽さ”を履き違えた人間の末路か。
本人確認の罠
私はその男とのやり取りを録音し、念のため警察にも報告書を提出した。本人確認制度が整っていても、すり抜ける者は必ずいる。
そして、その抜け道に司法書士が巻き込まれてはいけないのだ。
やれやれでは済まない真相
結局、委任状の不備を理由に登記は却下。男は後日、別件で逮捕されたと聞いた。だが司法の網にかかるまでに、何人が騙されていたのかは分からない。
やれやれ、、、世の中は今日も手間のかかることばかりだ。
意外な黒幕の存在
その後、さらに別の不動産業者の名前も浮かび上がった。裏で帳簿を操作していたのは、どうやら別の“顔役”だったらしい。
登記の世界は、決して表だけを見ていてはいけない。
サザエさんの波平方式の説得術
「人の道を外れたら、バチが当たるもんじゃ!」とでも言いたいところだが、私は波平さんほど熱くはなれない。ただ、法律の力でその道を正すだけだ。
そう、それが司法書士の務めなのだ。
罪と手続の狭間で
紙一枚の中に、悪意が詰め込まれていることがある。善意で見逃せば、それは共犯になる。今回、それをサトウさんが救ってくれた。
彼女は私よりもよほどこの業界の現実を見ているのかもしれない。
正義か職務か
「先生、こんなのに巻き込まれたら、事務所潰れますよ」
サトウさんは淡々と、だが鋭く釘を刺してくれた。たしかに、私はうっかり屋だ。しかし今回は、うっかりでは済まされなかった。
司法書士の矜持
印鑑ひとつ、書類一枚。その重さを、世間は軽んじる。だが、そこにこそ私たちの存在意義がある。
「正しく通す」、それが何よりも大切なのだ。
押印の重さを知るとき
事件が片付いたあと、あの朱肉の濃さがふと頭をよぎった。あれは嘘を隠すための濃さだったのだ。
薄く、静かに捺された本物の印影こそ、信用の象徴なのだろう。
小さな判子のもたらした結末
あの委任状がきっかけで、一つの悪意が暴かれた。だがそれ以上に、「小さなこと」に気づくことの大切さを、私は改めて思い知らされた。
司法書士とは、まさにその「小さな気配」に気づく職業なのだ。
最後の書類提出
私は新たな案件の登記申請書を整え、法務局へ向かった。今度はすべて完璧な書類だった。
サトウさんのチェックが入っているからだ。
事務所に戻る午後の気配
午後の陽射しが、ブラインドの隙間から差し込んでいた。静かな事務所に戻ると、机の上には冷めたコーヒーが置かれていた。
その横には、サトウさんがプリントアウトしていたらしき資料の束があった。
冷めたコーヒーと塩対応
「コーヒー、冷めてますよ」
「ああ、ありがとう」
「別に温め直すとは言ってませんけど」
サトウさんの一言に救われる
私はその冷めたコーヒーを一口飲んで、ふっと笑った。今日も、彼女の塩対応に救われている。
そしてまた、次の依頼人が扉を開ける音が聞こえた。