朝の来訪者
鳴り響いたチャイムと見知らぬ依頼人
朝一番、事務所のチャイムが鳴った。時計の針はまだ9時を回ったばかり。眠気の残る頭で扉を開けると、緊張した面持ちの中年女性が立っていた。
彼女は開口一番、「父の名義になっている土地について、相談したいのですが」と言った。
その声の調子からして、ただの名義確認ではない。何かしら、過去に触れてはいけないものが眠っている——そんな直感が走った。
消えた名義人
登記簿に残された謎の名前
登記簿を取り寄せて見ると、名義人として記されていたのは「藤原誠」という名前だった。しかし、その女性の父は「藤原和男」。まったくの別人である。
さらに奇妙なのは、権利関係が一度も移転していないこと。昭和54年に登記されてから、一切の異動なし。
まるでその名前が、最初から「存在しない人物」だったかのように思えてきた。
疑念の契約書
不自然な筆跡と整いすぎた印影
押入れの中から見つかったのは、黄ばんだ売買契約書。署名欄には「藤原誠」の名前と、鮮明すぎる印影。
字体が明らかに不自然だった。宛名に使われているペンも、他の部分とは違っていた。
何より、住所の書き方が「番地→町名」の逆書き。地方の人間がこんな書き方をするだろうか?
サトウさんの推理
一枚の固定資産税通知から広がる糸
「先生、これ見てください」サトウさんが差し出したのは、令和元年度の固定資産税通知。受取人欄には、なんと「藤原和男」の名があった。
「つまり、実際に行政が認識していた名義人は依頼人の父。でも登記上は“誠”」
帳簿と実態がズレている。まるで影と本体が入れ替わっているような、不気味な話だった。
やれやれ、、、また厄介な案件か
空き家の中で見つけた違和感
現地調査に向かうと、そこには朽ち果てた平屋が建っていた。昭和の匂いを残したまま、誰にも顧みられずに取り残されたような風情。
「やれやれ、、、また面倒なヤツだ」とぼやきながら、私は敷地の境界杭を確認した。ところが、不自然にズレている。
測量図と照らし合わせると、1.2メートルほど南に寄っていた。これは意図的なものに違いない。
名義変更のトリック
法の隙間を突いた巧妙な手口
不動産業者の資料を掘り返していくうちに、一人の司法書士の名前が浮上した。かつて業界でグレーゾーンと噂されていた人物だった。
その男は、依頼を受けると「誰か」の名前を名義人として作り上げ、表向きの書類だけで登記を完了させていたらしい。
“誠”という人物も、帳簿上の幽霊——つまり架空の存在だった。
過去の登記簿と旧姓の謎
40年前の住宅ローンの影
さらに古い謄本を取り寄せると、最初の所有者は「藤原春江」なる女性。旧姓を辿ると、和男の母であり、春江の夫が“誠”と名乗っていた時期があったという。
どうやら、名義は実在した人物の「古い呼称」だった。しかし彼は戦後すぐに亡くなっており、登記日とは整合しない。
つまり、誰かが故人の名を借りて登記を行ったということになる。
元野球部の勘が冴える
一球のように絞った真実
「そもそも、誰が得をしたのかを見ればいいんだ」——高校野球で培った、一球に全てを懸ける集中力が蘇る。
不動産の移転後、ある金融業者がその土地を担保に取っていた記録が出てきた。
そこにいたのは、かつてグレー司法書士と噂された男の弟。すべてが繋がった。
暴かれた真犯人
名字を借りた影法師
すべての証拠が揃ったところで、私は市役所の不動産課へと赴いた。帳簿の不整合と登記記録の照会を重ねた結果、告発状が提出されることとなった。
名義を乗っ取り、故人の名前を利用し、不正な担保を得た者は、ついに罪を認めた。
「藤原誠」——その名は、もう二度と登記簿に現れることはない。
登記名義に潜む動機
遺産でもなく土地でもなく
彼らが欲しかったのは、土地ではなかった。その土地にまつわる“歴史”だったのだ。
旧来の地主としての面子、家名、見栄。昭和の男たちが最後に守ろうとした幻想が、いま罪として表れた。
だが名義人の影に潜む動機は、家族の誰にも理解されなかった。
サトウさんの一言
「やっぱり男ってうっかりですね」
「書類だけ整えれば、真実は隠せると思ってたんでしょうね」
そうサトウさんが言って、ため息まじりに書類の整理を始めた。
私は黙って、書きかけの調査報告書を見つめた。
名前だけがそこにあった
静かに閉じる登記簿のページ
藤原家の土地に新たな名義が記されることはない。依頼人は、父の記憶とともに静かにその土地を手放すことにした。
残された登記簿には、ただ一つの名前が、虚ろな影のように刻まれていた。
名前だけがそこにあった——まるで、最初から存在しない者のように。