朝一番の来訪者
その朝、事務所に一番乗りしてきたのは、身なりの整った白髪の老人だった。スーツの襟には見慣れない校章のようなバッジがついている。彼は「これを見ていただけますか」と、おもむろに分厚い封筒を差し出した。
中身は、法定相続情報一覧図の写しと、彼自身が相続人であると主張する申出書だった。だがその一覧図に、肝心の「ある名前」が見当たらなかった。
謎の老人と一通の申出書
「これはおかしいですね……本来なら長男の名前が記載されているはずです」
老人は静かに言った。その口調は確信に満ちており、嘘をついているようには見えなかった。だが、一覧図にはたしかに「長男」の欄が存在しない。
「それに、提出者の欄には別の人の名前がある……ご親族では?」とサトウさんが冷静に口を挟んだ。
法定相続情報リストの異常
通常、戸籍に記載されていれば、相続人としてリストに載るはずである。しかし、その“長男”とされる人物の痕跡が、戸籍にも住民票にも見当たらない。
まるで最初から存在していなかったかのように、記録がごっそり抜け落ちていたのだ。
戸籍にあるはずの人物がいない
「よくある戸籍のミスってやつですか?」
「いや、それにしちゃ消え方が整いすぎてる。まるで意図的に誰かが手を加えたような……」
サトウさんはすでに何か思いついているようで、目を細めながら資料をめくっていた。
封印された家族の記録
やがて彼女が指を止めたのは、昭和時代の改製原戸籍だった。そこには、確かに“長男”と記された人物の名があった。
だがその名には、赤い二重線が引かれ、「養子縁組により除籍」とある。しかもその除籍日は、養親が死亡する三日前——偶然にしてはできすぎている。
「養子になった瞬間に相続権を失う……これは、誰かの意思で仕組まれた可能性がありますね」
サトウさんの検索能力
事務所のPCを操作するサトウさんの指が止まらない。国会図書館のデジタルアーカイブ、裁判例検索、そして新聞記事の縮刷版——その眼差しは、まるでサザエさんのワカメちゃんが小学校の自由研究に本気を出したときのように真剣だった。
「これですね、地方新聞に載っていた火事の記事。養子縁組の直後、被相続人の家が全焼しています」
「やれやれ、、、ただの相続手続きのはずが、なんだか雲行きが怪しくなってきたな」
実家の表札と見覚えのある筆跡
シンドウは現地調査を決行した。被相続人の実家跡地には、新築のアパートが建っていたが、そのポストには「ナガセ」と記されていた。
「あれ、これって……申出書に書かれてた名前と同じじゃ……」
しかも、その表札の筆跡は、申出書の署名と瓜二つだった。書いた人物は、同一——つまり、養子縁組の提出者自身である。
ひとつの養子縁組届
市役所で閲覧した養子縁組届には、明らかに不自然な点があった。被相続人の署名が、極端に震えていたのだ。
「これ、代筆ですね。しかも書いた人間はさっきのナガセ。だったら……」
サトウさんが、ようやく立ち上がった。「偽装です。火事のあと、遺体の確認ができなかった可能性があります。死亡届自体が……」
絶縁か偽装か
司法書士の目から見ても、この一連の書類の流れには不自然さが残った。除籍、火事、申出書。すべてのタイミングが合いすぎている。
「戸籍から名前を消すってことは、その人の存在ごと消したいってことだろ……」
「はい。相続権を奪うには、それが一番確実です」サトウさんの言葉には、微かな怒りがにじんでいた。
やれやれ、、、記憶の空白
シンドウは一息つきながら、机の上の書類を見つめた。あの火事の遺体は本当に本人だったのか。偽装が可能だったとすれば、戸籍も相続も、すべてが仕組まれていたことになる。
そして、名前を消された“長男”は、どこかで静かに生きているか、もしくは——。
「やれやれ、、、俺が関わる案件、ろくなことにならないな」
叔父と名乗る男の嘘
最初に現れた老人は、実は叔父でもなんでもなかった。ただの元養親の友人で、書類を預かっただけだった。
「私はあの子に悪いことをした……あの子は、本当は……」
彼は語ることなく、封筒だけを置いて去っていった。封筒の中には、一通の未提出の遺言書が入っていた。
指摘された住所の違和感
「この住所、古い町名のままだわ」
サトウさんが指摘した。火事後に再開発された地域で、住民票の住所表記が更新されていないのは異常だった。
「更新されていないってことは……この住民票は死亡前のものだ。つまり、それ以後の記録は、どこにもない」
法務局での小さな逆転劇
法務局での相談で、ひとつの不整合が明らかになった。登記簿の申請人欄に記載された筆跡が、明らかに別人のものである。
それが証拠となり、法定相続情報の再提出が認められた。記録された相続人の名簿が書き換えられる瞬間だった。
「やっぱり、法務局は嘘を見逃さないな……」
実印と印鑑証明の食い違い
提出されていた実印の印影と、登録されている印鑑証明のそれが微妙に異なっていた。印章の摩耗では説明がつかない。
それは“偽印”だった。細工された印影が、偽造の証拠として採用された。
消された名前の持ち主
やがて現れたのは、年季の入った登記済証を持つ中年男性だった。彼こそが、消された“長男”本人だった。
「あのとき、家族を名乗る資格がないと思っていた。でも、今なら……」
彼は涙をこらえながら、遺言書をシンドウに託した。
真実を知るための遺言書
その遺言書には、「財産はすべて長男に」と書かれていた。それを止めたのが、養子縁組に走った者たちだったのだ。
戸籍の記録と、血のつながり。どちらが「家族」なのか、それを裁くのは法ではなく、想いだった。
再提出された相続情報
再構成された法定相続情報一覧図には、消されていた名前がきちんと記されていた。
サトウさんは淡々とパソコンに入力しながら、「やっと、本当の相続が始まるって感じですね」とつぶやいた。
「ほんとにな……サザエさんなら『家族っていいもんですね』って終わるけど、現実はこうさ。やれやれ、、、」
戸籍に戻った名と静かな涙
登記が完了し、ひとつの相続が終わった。
中年男性はそっと目頭を押さえながら、「もう名前を消されることはないですよね」と言った。
シンドウは静かにうなずいた。「記録よりも、記憶に残るほうが本当の名前だと思いますよ」