朝一番の書類はどこか冷たかった
事務所に届いた分厚い封筒。その中には、一枚の委任状が入っていた。日付と署名があるが、何かが欠けている。僕の目には、その白い余白が異様に映った。
封筒の送り主は、昔ちょっとだけ縁があった依頼人だった。彼の名前を見た瞬間、胃の奥が軽く痛んだ。いい思い出なんて、なかったはずなのに。
違和感のある委任状
文面は完璧で、条文の引用も申し分ない。だが、押印された印鑑が妙に新しい。つい最近作られたもののようだ。依頼人の実印は、もっと古びていたはずだ。
念のため過去の登記申請書類と照らし合わせると、明らかに印影が異なる。「これは、本人の意思ではないかもしれませんね」と、後ろからサトウさんがぼそりと呟いた。
日付だけが空欄の理由
唯一空欄だったのは、契約発効日。それが偶然なのか、それとも意図的なのか。書類のすべてが揃っているようで、核心には触れていない。まるで、手品のタネのように。
「日付を後から書けば、いつでも未来を作れるってことですね」とサトウさん。まるでルパン三世の峰不二子みたいな冷ややかな微笑みに、僕は小さくため息をついた。
サトウさんの鋭い指摘
サトウさんは、一度しか会ったことのない依頼人の過去の記録を調べていた。そこには、かつて提出された婚姻届の証人欄に、同じ筆跡が残っていた。
「愛していたんでしょうね。証人にもなって、名前も貸して、それで今度はこの書類」サトウさんの言葉がやけに重く響いた。
筆跡が揃いすぎている
委任状と婚姻届、さらには昔の戸籍謄本の備考欄まで、すべて同じ書体だった。誰かが、ずっと同じ人間になりすまして書類を作っていた。それも、非常に長い年月をかけて。
「こんなに揃ってると、逆にわざとらしいですね。まるで怪盗キッドの変装みたいです」とサトウさん。ああ、やれやれ、、、僕の事務所は今日も騒がしい。
恋文にしては理路整然としていた
そもそも、感情がこもっているなら、もっと乱れているはずだった。だがこの委任状は、どこまでも整っていた。まるで感情を排したラブレターのようだった。
恋文のように見えて、書類として成立する。それは一種の偽装であり、記録を操作する巧妙な罠だった。僕は、何を信じればいいのか分からなくなった。
依頼人は元恋人
数年前、彼女は僕の前に現れた。登記相談にかこつけて、お茶を一杯だけ飲んで帰った。それ以来、音沙汰はなかった。だが、彼女の名前で書かれたこの書類は、明らかに生きていた。
封筒には差出人の名前すらなく、消印も消えていた。まるで過去そのものが漂ってきたような感覚に、背筋がぞくりとした。
優しさか打算か
彼女がこの書類を誰のために書いたのか、それが問題だった。依頼人は別人のはずなのに、書き手は彼女。それは、自らの未来を託すための遺言のようにも見えた。
でもそれは、相手のためというより、彼女自身の願いだったのかもしれない。優しさと打算は、境界線が限りなく曖昧だ。
封印された過去の約束
昔、彼女が僕に言った。「もし私がいなくなっても、あなたならちゃんと処理してくれると思って」あれは冗談のようで、本気だったのかもしれない。
この書類は、あの時の言葉の延長線上にあった。まるで、封印された約束がタイムカプセルみたいに開いた気がした。
登記簿に残るはずのなかった一行
登記申請書の備考欄に、小さなメモ書きがあった。「彼に届けて」それだけの走り書きが、なぜか法務局の審査をすり抜けていた。
この一行が、書類全体の真意を物語っていた。法的な力はなくとも、そこには人の意思が込められていた。それだけは確かだった。
空欄が語るもの
空欄だった日付は、彼女の命日と同じだった。偶然か、あるいは誰かが合わせたのか。いずれにしても、それを知った瞬間、僕は目を閉じた。
記録とは、本当は残すべきものではなく、忘れないためのものなのかもしれない。そんなことをふと思った。
やれやれ僕の出番か
サトウさんは「こういうのは、あなたしか扱えませんから」と言って書類を机に置いた。無茶ぶりだ。でも、嫌ではなかった。
やれやれ、、、今日もまた、記録と感情の狭間で僕は書類と向き合う。
契約と感情のあいだで
法律は明確な線引きを求めるが、人の心は常にぼやけている。書類はその狭間で、時に嘘をつき、時に真実をこぼす。
その両方を受け止めなければならないのが、司法書士という仕事なんだと痛感する。割に合わないけれど、僕には向いているのかもしれない。
サトウさんの塩対応がほどけた瞬間
「今日はちょっと、頑張りましたね」とサトウさんが小さく呟いた。気のせいか、その声はいつもより柔らかかった。
まるで、サザエさんのカツオが珍しく褒められた時みたいに、僕は背中がむず痒くなった。慣れていないことは、やっぱり照れる。
恋の余白に真実を探す
恋は書類にできない。だが、その余白には確かに人の気持ちが宿る。僕はその気配を、今日も筆跡の向こうに感じている。
証拠はなくとも、確信はある。真実は、文字の間から滲んでくる。
そして真実は封筒の中に
封筒の内側には、小さな紙片がもう一枚隠されていた。「あなたがいてくれて、よかった」それは、彼女の最後の言葉だったのかもしれない。
書類としては無効。それでも、心にはしっかりと効力があった。
署名の裏側にあった動機
彼女が偽造というリスクを背負ってでも、書き残したかったもの。それは、未来の保証ではなく、過去の清算だったのだ。
誰にも届かない願いは、時に書類という形をとる。記録と願いの狭間に生きる僕に、それが読めないわけがなかった。
もう一度だけ愛されたかった
たった一言、それだけでよかったのだろう。彼女はもう、誰にも会えない場所にいたけれど、その気持ちは確かにここにあった。
記録としては残らなくても、僕の記憶にはしっかり刻まれた。
事件の終わりは静かだった
何も起こらなかった。逮捕もなければ、嘘も暴かれない。ただ静かに、彼女の気配が事務所から去っていっただけだった。
それでいい。そう思えたのは、たぶん初めてだった。
シンドウが見つけたもの
書類のすき間から顔を出したのは、事件ではなく想いだった。僕はそれを、記録でもなく証拠でもなく、ただ受け取った。
誰もが忘れてしまうような小さな感情のかけら。それこそが、この仕事の本質なのかもしれない。
そして誰も罰せられなかった
そう、誰も罰せられなかった。罰すべき法律違反はなかった。あるのは、少しだけルールを外れてしまった恋心と、その余白に残った願いだけだった。
それならそれで、いいじゃないか。ねぇ、サトウさん。
余白に願いを託して
誰かの願いが余白に滲む。僕はそれを見落とさないように、今日も書類を開く。大切なのは、文字よりもその周辺にある何かだ。
そして明日もまた、余白を読む仕事が始まる。
司法書士はただ記録するだけ
それが建前であり、役目だ。でも、本当はそれだけじゃない。たまには、記録に残らないものにも目を向けてしまうのが人間というものだ。
だけど時には
その記録されない願いが、人を動かす。紙一枚の重さを、僕は知っている。だから、たとえ意味がなくても、僕はその一枚を大切に扱う。
心も読み取らなくちゃならない
それが面倒な日もある。疲れる日もある。でも、やっぱりこの仕事が嫌いにはなれない。書類のすき間から、今日も誰かの人生がこぼれてくる。