印影に潜む嘘

印影に潜む嘘

古びた委任状と奇妙な依頼人

事務所に届いた一通の封書

その朝、僕の机の上に置かれた封筒は、どこか湿気を帯びていた。封は開かれておらず、宛名には手書きで「司法書士シンドウ様」とあった。差出人は記されていなかったが、妙に胸騒ぎがしたのを覚えている。

封を切ると中には、古びた委任状の写しとともに、簡素な手紙が添えられていた。「この書類に不正があります。ご確認ください」とだけ。差出人の名前は伏せられていた。

依頼人は誰なのか過去の記録を辿る

委任状に記された名前は、三年前に一度だけ登記手続きを行った依頼人のものだった。記録を引っ張り出し、当時のファイルを開く。だが、その書類に違和感を覚える。押印の位置が変だ。

本来であれば記名押印の下部に「捨て印」があるべきなのだが、中央寄りに押されていた。まるで、意図的に書き換えられる余地を自ら与えたような、そんな不自然さだった。

捨て印が揺らす事実認定

押されているはずのない場所に印影が

確認のため原本を取り寄せると、やはり押されていた。しかも、日付欄の近くにもう一つ、違う赤みを帯びた印影がうっすらと残っていた。僕の記憶では、あのとき捨て印は依頼人の意向で押されなかったはずだ。

誰かが後から加えたのか?だとすれば、その目的は何か。文書の正当性に重大な疑義が生まれた。

筆跡と印鑑の矛盾がもたらす違和感

手書きの文言と印影の位置関係を精査すると、奇妙な点が浮かび上がる。筆跡は本人のものに見えるが、なぜか文字の上にうっすらインクが乗っている。つまり、印が後から押されたということになる。

しかも、その印影にはわずかながらブレがあった。印を押し慣れていない人物――もしくは、急いでいたのかもしれない。そんなことを考えていると、背後からサトウさんの冷たい声が響いた。

サトウさんの冷徹な観察力

捨て印のクセに潜む違和感

「この印、本人のものとは微妙に違いますね」と彼女は言った。彼女はPC画面に映し出された拡大画像を指さした。「横線の入り方が甘いです。あと、印面の朱肉のノリが不自然に濃い」

なるほど。彼女の目は誤魔化しが効かない。僕のようなうっかり者とは違うのだ。「やれやれ、、、まったく、毎度のことながら助かるよ」と言うと、サトウさんは無表情でうなずくだけだった。

書類に残された二つのインク

さらに調査を進めると、書類の一部に使われているインクが別物であることが判明した。旧型のボールペンと、最近のゲルインクペン。時代の違う筆記具が一枚の紙に混在していたのだ。

つまり、過去に作られた委任状が、最近になって書き換えられた可能性が出てきた。だが、誰がそんな手間をかけて偽装を?そして何のために?

旧登記簿の闇を探る

裏書された謄本の謎

旧登記簿謄本を調べると、そこには想定外の裏書きがあった。所有権移転の記録に、謄写者の欄が二重線で訂正されていたのだ。さらにその訂正には、例の「捨て印」が使われていた。

こんな細工、一般人には無理だ。これは内部の人間、もしくは法的な手続きに関与できる立場の者――司法書士か、それに近い職種の関与を疑わざるを得ない。

司法書士ならではの調査の切り口

僕は当時関わった法務局の担当者に電話を入れ、押印に関する補正記録を調べてもらった。その結果、「委任状の訂正届出」が数ヶ月前に出されていたことが判明した。

その届出の書式には、偽造された印鑑と一致する捨て印が押されていた。つまり、現在の登記は偽造された書類に基づいて成立している可能性が極めて高いのだ。

やれやれついに動くか警察も

軽い気持ちの相談が刑事事件へ

「いやー、ちょっと気になった程度でね」と軽く相談を持ちかけたつもりが、今やこれはれっきとした刑事事件である。警察も、事情聴取と裏取りに本腰を入れはじめた。

登記の背後に大きな金銭的利得が絡んでいると判断されたら、詐欺罪も視野に入る。依頼人の影はますます怪しくなるばかりだ。

遺産相続の裏に潜む詐取の罠

調べを進めるうち、書類に記された土地は、実は相続放棄された遺産の一部であることがわかった。関係者の一人が、その空白に目をつけて偽装したのだろう。

本来ならば誰も手を付けなかったはずの不動産が、不正な手続きを通じて動かされていた。捨て印は、その鍵を握る「偽造の承認」を意味していたのだった。

疑惑の中心人物との対峙

沈黙を貫く被疑者の過去

容疑者として浮かび上がったのは、当時の相続人の一人だった男。事情聴取に対し、彼は「知らない」「記憶にない」の一点張り。しかし、彼の過去には公文書偽造の前歴があった。

しかも、その男は別の司法書士事務所で補助者として働いていた時期がある。書式の扱いに慣れているのも当然だった。

シンドウの小さなミスが決定打に

僕が保管していた控えの一部に、誤ってコピーした印影が微かに写り込んでいた。そのブレが決定打になった。「原本と完全一致していない印影が、なぜコピーのみに存在するのか」――それが決め手だった。

まさか自分のうっかりが役に立つとは思わなかった。サザエさんの波平が新聞で怒られるくらいのミスが、今回は事件を明るみに出す鍵となったのだ。

あの日の捨て印が語る真実

再捺印のタイミングに隠された動機

再捺印されたのは、相続人の一人が亡くなった直後。関係者が減ったタイミングを狙って、書類の体裁を整えたというわけだ。印の強さ、朱肉の濃さが物語っていた。

捨て印とは、ある意味で「未来の承認」を意味する。そして今回は、その信頼を逆手に取られた。紙一枚に込められた意味の重さに、改めて身が引き締まる。

嘘を包む紙一枚の重み

誰かが軽い気持ちで押した捨て印が、誰かの権利を奪い、誰かの罪を隠そうとしていた。けれど、それも全て暴かれた。紙は嘘を隠さない。静かに、しかし確実に、真実を浮かび上がらせる。

僕たちは、紙に刻まれた嘘を見抜き、暴く者である。そう自分に言い聞かせる。

事件は解決したが残る余韻

シンドウの愚痴とサトウさんの無言

「結局、誰も得しない話だったな」と僕はこぼす。サトウさんは書類を片付けながら「最初からそういう匂いはしてました」とだけ言った。やれやれ、、、本当に彼女は鋭い。

僕はいつも後追いで、ギリギリになって走り出す。だが、それでもなんとか形にするのが僕のやり方だ。

「あのときもっと早く気づけば」

後悔というより、ほろ苦い思いが残った事件だった。依頼人の顔すら見ぬまま終わったのも、何か虚しい。けれど、また明日には新たな案件がやってくる。

僕たちは、そうして日々、名前のない誰かの代わりに紙と格闘していくのだ。

事務所の日常に戻る

依頼は山積みついでにトラブルも

サトウさんが次の依頼書を無言で差し出してきた。ファイルの厚さを見るだけで頭が痛くなる。「もうちょっと休ませてくれないかね」とつぶやくと、「休憩は昼に30分だけです」と返ってくる。

これが、僕の現実であり日常だ。

それでも明日は登記と書類と格闘

逃げたい日もある。放り投げたくなる時もある。けれど、紙の裏にいる誰かの想いを信じて、僕はまた、印影を見つめるのだ。今日もまた、真実を拾い上げるために。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓