恋人が最後に押したハンコ

恋人が最後に押したハンコ

午前九時の依頼人

その日、事務所のドアが開いたのはちょうど午前九時だった。シャープなスーツに身を包んだ若い女性が、やや躊躇いがちに受付の前に立つ。サトウさんが無言で目線を上げたのを見て、女性はぺこりと頭を下げた。

「登記の件でご相談がありまして…」その一言で、俺は椅子に深く腰を沈めた。恋愛相談じゃないなら歓迎だ。そう思っていた。

赤い口紅とふたつの名義

彼女が差し出した書類は、あるマンションの所有権移転に関するもので、申請人と受贈者がともに記載されていた。よく見ると、その名義は二人の男女になっている。しかも、女性のほうは目の前にいる依頼人だった。

「元彼から贈与されたものです。でも、急に亡くなってしまって…」口紅の赤が、やけに鮮やかに映った。

記録に残された微笑み

彼女が差し出した写真には、二人が笑っている姿が写っていた。登記原因証明情報の添付資料として、微笑む彼の横顔がそこにあった。

「生前贈与だと証明できれば、登記は可能です。ただし…」とサトウさんが口を挟む。声のトーンはあくまで平坦だった。

元カレのマンションと登記簿の謎

登記簿には、ひと月前に既に移転済みの記録があった。しかしその日付は、彼が亡くなった日よりも後になっていた。誰かが手続きをした、あるいは偽造された可能性がある。

「そんなはずありません。彼の死は一週間前なんです」依頼人は震える声で否定する。

封印された印鑑証明書

俺はそのまま押印証明を見た。確かに彼の印鑑証明が添付されている。だが、有効期限はギリギリだ。そして署名筆跡に微妙な違和感があった。

「これ、誰が提出したんですか?」俺が尋ねると、彼女は言葉を濁した。「代理人の方にお願いしたんです」

死者の署名が語る真実

死後に押されたような印鑑。死亡診断書と照らしても矛盾する点がある。まるで「幽霊」が登記したかのようだった。いや、登記の現場にはいつだって人間の欲が見え隠れする。

やれやれ、、、またか、と心の中で呟いた。

サトウさんの違和感

「この委任状、ちょっと変です」サトウさんが小さく呟いた。「フォントがバラバラなんですよ。明朝とゴシックが混ざってる」

「それって、普通はどうなの?」と俺が聞くと、彼女は一言、「変です」。それだけだった。だが彼女の言葉は、何よりも信頼できた。

平成と令和の狭間に潜む時効

委任状の日付は平成表記だったが、実際は令和に入っている。そのズレが意味するものは大きい。もしかして、これは意図的な工作かもしれない。

つまり、誰かが偽造書類で登記を通した可能性があるということだ。

やれやれの午後三時

午後三時、事務所のコーヒーが冷めていた。案件の進捗は思わしくない。依頼人からの追加資料もこない。うまくいかない午後ってのは、どうにも気が滅入る。

「シンドウさん、地元の法務局から連絡です。あの登記、既に別の人が異議申し立てしてるそうです」サトウさんの声に背筋が伸びた。

婚約者は遺言書を知らなかった

どうやら、故人にはもう一人「恋人」がいたらしい。そしてそちらには正式な遺言書が残されていた。遺言執行者は彼の弟だった。

依頼人は、そのことを初めて知ったような顔をしていた。だが俺には、どこか嘘くさく見えた。

登記申請書のウラ側

提出された申請書には、同一筆跡の偽装がいくつかあった。しかも、その申請は一度却下されてから、別の司法書士を通じて再提出されていた。

「つまり、依頼人は最初からグレーだったってわけだ」俺は呟いた。

書類に潜む第三の人物

背後にいるのは、彼女の知人の司法書士か、あるいは不動産業者か。誰かが彼女を使って偽装登記を通そうとしていたのだ。

だが、最後の証拠がまだ足りなかった。

シンドウの現地調査

俺は現地のマンションを訪れた。管理人に事情を聞くと、死亡当日も誰かが部屋に出入りしていたという。

「若い女性でしたよ。髪の長い」その特徴は、依頼人ではなかった。

郵便受けに残された影

郵便受けの中に残された一枚のハガキ。それはもう一人の女性の名前が書かれたものだった。そして、裏には「ありがとう、さようなら」と走り書きがあった。

恋と登記は、時に紙一重だ。

元野球部のカンが告げるもの

「三振かと思っても、バットを振れば当たることもある」俺はそんな言い訳をつぶやきながら、法務局へ連絡を入れた。

登記の裏にいる司法書士を調べてもらう。それが突破口になると確信した。

打率三割の直感が当たる日

その司法書士、過去にも似た事例で処分を受けていたことが判明した。ようやく点と線が繋がった。

依頼人は、利用されたのか、共犯なのか。それは本人に聞くしかない。

恋人が押した最後のハンコ

印鑑は確かに彼女のものだったが、それを押させたのは誰か。もしかすると、愛ではなく恐怖が動機だったのかもしれない。

「全部、信じてたんです」依頼人はそう言って泣いた。その涙が本物かどうかは、俺にはわからなかった。

真犯人は誰を守ろうとしたのか

登記の裏で操っていたのは、不動産業者だった。恋人の死を利用し、名義を操作して利益を得ようとした。

依頼人は利用されたに過ぎなかった。悲劇だった。それでも、法の下ではきちんと清算しなければならない。

赤い印影とサトウさんの沈黙

「恋って、難しいですね」俺が言うと、サトウさんは珍しく微笑んだ。「だから私は登記のほうが好きです」

それは彼女なりの優しさなのだろう。俺は湯のみを手にとって、深く息をついた。

司法書士が恋を解くとき

登記とは記録。恋とは記憶。どちらも人を縛る。だが、どちらも人を救うこともある。だから、俺は今日もペンを取り、次の案件に向き合う。

やれやれ、、、この仕事、まだまだ終わりそうにない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓