はじまりは月曜日の午前中だった
曇り空の下、今週もまた事務所のコーヒーが薄い。機嫌の悪いコピー機の音が低く響く中、ひとりの若い女性がドアをノックもせずに入ってきた。目元に力がないが、指先には震えがあった。
「遺産の件でご相談がありまして」と彼女は口にしたが、それ以上は言葉を続けられなかった。
サトウさんが静かにうなずき、ボールペンと委任状を机に差し出す。手慣れたもんだ、と心の中で呟きながら、俺は椅子の背もたれに体を預けた。
妙な依頼と黙った依頼人
遺産分割協議書の作成と不動産の名義変更。話だけ聞けば、よくある案件だ。しかし彼女の「黙り方」が気になった。誰かに聞かれてはいけない話を隠しているような、そんな空気が漂っていた。
「お父様が亡くなって、すぐのご依頼ですか?」とサトウさんが訊ねたが、彼女は目を伏せたままうなずくだけだった。
俺は念のため、死亡届の写しと固定資産税評価証明書を確認するよう指示した。形式上の確認ではなく、何かを確かめるために。
封を切られなかった手紙の存在
彼女が差し出した封筒は、開封されずにセロテープで封が補強されていた。中には、筆跡の古い手紙が一通と、コピーされた登記識別情報通知書の控えが入っていた。
封筒の外にはボールペンでこう記されていた。「わたしのことどう思ってるんですか」
なんだこれは、恋文か? それとも遺言のような何かか? やれやれ、、、朝から胃が重くなるようなものを持ってきてくれたものだ。
依頼の正体はただの遺産分割ではなかった
俺たちが預かったのは不動産登記の手続き一式だった。けれども、その登記名義を見た瞬間、違和感が胸を刺した。被相続人であるはずの父の名義が、数年前に別人に移っている。
その別人の名前は、彼女の姉のものであった。だが、彼女は「姉とは疎遠」と言っていたのだ。
矛盾は、登記簿の中で静かに笑っていた。
亡き父が遺した不動産の登記簿
法務局で取得した登記簿には、数年前の贈与による所有権移転登記が記録されていた。しかも、その直後に新たな抵当権設定がなされている。
つまり、贈与された土地を担保に、姉が大きな借金をしていたということだ。
父親の死後に、なぜ妹が名義変更の依頼を持ってきたのか。この時点で、案件は単なる遺産分割ではなく、火種を含んだ争いの様相を呈していた。
名義に隠されたもうひとつの秘密
手紙の中に記されていた「あなたのその判断、わたしを試してますか」という一文。そこには贈与の背景となる動機が匂っていた。
そして、その文面の最後にはこう書かれていた。「それでもあなたが好きでした」
まるでサザエさんの波平が家の柱に隠れて読んでいそうな、古風で切ない文体だったが、法的な示唆は十分に含まれていた。
サトウさんが指摘した一通のメール
俺が封筒の文面を読んでいる横で、サトウさんがノートパソコンを叩いていた。依頼人のメールボックスを開き、そこから「下書き」のフォルダを開くと、件のタイトルが見つかった。
「わたしのことどう思ってるんですか」——送信されなかったメールの内容は、開かれるのを待っていたかのように残っていた。
メールには、ある男性への未練と疑念が綴られていた。しかも、その男性の名前は俺のよく知る人物だった。
ドラマは送信フォルダから始まった
「なんでこれ、送ってないんでしょうね」サトウさんがぽつりと呟く。俺はその問いに答えられなかった。
いや、答えたくなかったのかもしれない。メールの宛先には、司法書士の名前が記されていた。「宛先:shindou@…」
やれやれ、、、まさか俺自身が依頼人の恋文の対象だったとは。ドラマに出てくる三枚目探偵のような気分だった。
わたしのことどう思ってるんですか の真意
メールの内容は、登記の相談の皮を被った疑惑の告発だった。「なぜ父の名義を姉に移したのか」「あなたはわたしの敵なのか、それとも味方なのか」
俺はあのとき、ただ依頼された通りに手続きを行った。依頼主の意思を疑わなかった。
だが、その背後でどれだけの感情が動いていたのか。今になってようやく、手紙とメールが物語っていた。
関係者が語るそれぞれの想い
その後、姉と連絡が取れた。彼女は強気で理屈っぽく、「父の意思だ」と言い張ったが、どこか怯えたような口調でもあった。
「妹は勘違いしてる。父も私に託すと遺言めいたことを言ってた」
しかし、遺言書はなかった。証拠もなく、真実は記憶のなかで揺れていた。
妹が抱いていた疑念と怒り
妹は、「姉が父を騙して名義を奪った」と確信していた。そして、その経緯を知っていながら俺が沈黙したこともまた、裏切りだと思っていた。
怒りというより、哀しみと呆れが混ざったような感情だった。彼女は帰り際、「もう結構です」とだけ言って、足早に事務所を出ていった。
その背中を見ながら、俺はただ、やれやれ、、、としか言えなかった。
婚約者が語らなかった真実
後日、姉には過去に婚約者がいたが、その人と土地の名義を使って共同事業をしていたという話が出てきた。
事業は失敗し、土地は抵当に入り、今は競売寸前だった。父親がすべてを知っていたかどうかは、もはや確かめようがなかった。
すべてが沈黙の中で、終わっていくしかないのだ。
司法書士が法務局で見た決定的証拠
法務局で確認した登記識別情報の履歴。そこに、一度だけ誤った名義変更申請がなされていた記録があった。
申請人は「妹」だったが、受付番号で取り下げになっている。理由は「委任状不備」だった。
つまり——妹は名義変更を試みたが失敗し、姉にすべてを奪われた形だった。
やれやれ、、、と呟いた午前11時
俺はその履歴を見た瞬間に、どうにも言葉が出なかった。やれやれ、、、また過去の書類がすべてを語ってくれる。
真実は法務局にあった。しかも、誰にも気づかれないように静かに残されていた。
そう、証拠はいつも紙の中に眠っている。
登記識別情報の記載ミスに隠された罠
不備の原因となったのは、数字の「1」が「I」に見えたことによる単純な入力ミスだった。
このミスがなければ、妹の申請が通っていたかもしれない。あるいは姉に奪われることもなかったかもしれない。
だが、登記の世界に「たられば」は通用しない。それが、現実だ。
過去の恋文と現在の契約書
俺の手元には、結局送られなかったメールの写しと、正式な委任状が残った。
彼女はもう登記を望んでいない。けれども、想いだけは残った。それは誰にも届かず、誰にも読まれることのないまま。
サトウさんが言った。「司法書士って、時々恋の証人みたいですね」
気持ちは証拠にならないが意志は残る
裁判所や法務局では、証拠のあるものしか価値を持たない。感情や記憶は、扱いづらい。
でも人の心がなければ、登記なんてただの記号でしかない。そう思った。
それでも俺たちは、今日も紙を扱い続ける。
サトウさんのひと言がすべてを解いた
コーヒーを片手にサトウさんが言った。「あのメール、送られなくてよかったんじゃないですか?」
俺は笑って答えた。「そっか。送られてたら、俺、もっと面倒だったかもな」
サトウさんは一瞬だけ笑ったように見えた。塩対応は、少しだけ薄まっていた。
質問は告白ではなく脅迫だった
後から気づいた。あの「わたしのことどう思ってるんですか」は、好意の確認ではなかった。
真実を黙っていたことへの問い詰めだった。言葉が甘いほど、その裏は鋭い。
まるでキャッツアイのように、優雅に、そして容赦なく心を盗んでいった。
静かな午後に下された結末
事件でも恋でもなく、これはただの登記の話だった。でも、そこには人の人生が詰まっていた。
午後の事務所は静かだった。コピー機の音も止まり、サトウさんはまたExcelと格闘していた。
俺はまた新しい案件に向かって、書類に目を通す。
未送信のまま終わった想い
未送信フォルダには、何通もの思いが詰まっている。今日もまた誰かの「送れなかった言葉」が、データとして残っているのだろう。
俺たちはそれを知らずに、登記という手続きの中で人の感情を受け取り続けている。
それに気づけるかどうかは、こちら次第だ。
そして静かに綴られる登記の完了
申請書の電子署名が完了し、送信ボタンを押した。画面に「登記完了予定日」が表示される。
誰にも知られずに処理される一件の登記。その裏に、どれだけの感情があったかを知る者はいない。
ただ静かに、システムは処理を進めていた。