ふと気づいたら髪が伸びっぱなしだった
ある日、ふと鏡を見て「お、そろそろ切らなきゃな」と思った。けれど、次の瞬間にはそのまま歯を磨いて終わった。伸びっぱなしの髪、伸びっぱなしの感情。司法書士という仕事は対人業務ではあるけれど、基本は電話と書類が相手。誰かに見られる意識が希薄になっているのか、髪を整える意味を感じづらくなっていた。毎日が必死で、髪の長さなんてどうでもいい気さえしてくる。誰にも咎められないのなら、放っておいてもいいのかもしれない。
誰かに見られるわけでもなくなってきた
昔は月に一度、決まった美容院で決まった美容師さんに切ってもらっていた。今ではその予約の手間すら重たい。そもそも、見られる機会が減った。営業活動も最低限、会うのは既存の顧客や役所の窓口の人たちばかり。毎回同じメンバーで、互いに髪型なんて気にしていないように見える。たまに法務局で知り合いに会っても、お互い帽子をかぶって目をそらして通り過ぎる。それくらい、お互い疲れているのだ。
昔は一ヶ月に一度のルーティンだった
若い頃は、月一の散髪が“リセット”だった。忙しくてもその時間だけは自分を大事にしていた気がする。髪を切ることで気分が変わり、心まで少し軽くなった。でも、今は違う。ルーティンは崩れ、心の余裕は削られ、自分を構う時間が減っていった。何かを始めるより、目の前の登記や相談をひたすら処理することが優先になった。そうして気がつけば、前髪が視界を遮るようになっていた。
それが今や三ヶ月行かなくても平気
昔の自分が見たら驚くだろう。三ヶ月も散髪に行っていないのに、何の不安もないなんて。むしろ、このまま切らなくても生活できる気すらする。だけど、それは“慣れ”という名の諦めかもしれない。髪がどうでもよくなったわけじゃない。自分に手をかける余裕がなくなっただけだ。年を取るとは、そういうことなのかもしれない。
鏡の前で見えるものが変わった
最近、鏡を見ても髪型じゃなく顔の疲れにばかり目がいく。目の下のクマ、こわばった頬、下がった口角。髪を整える以前に、表情をどうにかしたい。だけど、整形するわけにもいかないし、睡眠もままならない。結局「まあいいか」で済ませてしまう。でも本当は、「まあいいか」を重ねるたびに、自分の中の何かが少しずつ摩耗している気がしてならない。
髪型より顔の疲れに目がいく
司法書士の仕事は、人と関わる分、表情が大事だ。わかってはいるのに、その表情を作る心のゆとりがない。疲れが滲んだ顔は、他人の話を聞くときもどこか上の空に見えてしまうかもしれない。そう思うと、髪型よりもまず気力を取り戻したい。美容室に行くことすら「行動のきっかけ」として必要なのかもしれない。
「整える」ことへの関心が薄れていく
世の中には“整えることが好き”な人もいるが、私は昔から不器用で面倒くさがりだった。とはいえ、年齢とともにその傾向は拍車がかかってきたように感じる。部屋も片付けず、郵便物も溜まりがち。まるで“手を入れる”という行為そのものに疲れてしまったような感覚。何をしても一時的。なら放置しても同じだ、そんな考えがよぎってしまう。
忙しさを言い訳にしているけれど
「忙しいから仕方ない」そう自分に言い聞かせているけれど、本当は“理由づけ”がほしいだけかもしれない。髪を切らないことも、顔が疲れていることも、すべて“仕事が忙しいから”と正当化すれば、少しだけ気が楽になる。でも、その言い訳は自分を救ってくれるだろうか。むしろ、心の奥底では「このままでいいのか」とうっすら不安が漂っている。
髪を切る時間すら惜しいと感じる日々
実際には予約して30分〜1時間程度。それなのに、どうしても「その時間を他に回したい」と考えてしまう。やらなきゃいけない書類、気がかりな案件、急ぎの連絡。何かしら理由をつけては自分を後回しにしている。だけど本当は、その時間をちゃんと取れる自分になりたいと、心のどこかで思っている。
優先順位の最下層にある「自分自身の手入れ」
仕事、家事、事務所の雑務、事務員との気配り……全部やって、自分のことは一番下。気づけばいつもそう。髪を切ることなんて「贅沢」と感じてしまう自分がいる。でも、そんなに自分を放っておいて、本当に大丈夫なんだろうか。心のどこかで、自分にもっと優しくしてあげたいという気持ちがあるのに、それを行動に移す余力がない。
散髪はただの贅沢なのか
ひと昔前の自分なら「髪を整えるのは社会人のマナー」なんて言っていたと思う。でも今は、その言葉が少し空しく響く。自分を整える気力がないときに、マナーもへったくれもない。ただ、“人としての最低限”をどう保つか、という課題と向き合っているような気がする。髪を切るという行為が、贅沢ではなく「生き方の確認」になりつつある。
清潔感は誰のために必要なんだろう
顧客のため?事務員のため?それとも、自分のため?実はそのどれでもない。もう「清潔感」は評価される対象ではなく、自分が自分をどう見るかの基準になっている。誰の目も気にせず生きられるなら楽かもしれない。でも、そんな自分に耐えられるだろうか。散髪に行く理由は、他人の評価のためではなく、「まだ自分を諦めていない」というサインなのかもしれない。
自分を丁寧に扱えないと、他人にもそうしてしまう
自分をないがしろにすると、不思議と周囲にも優しくできなくなる。疲れていると、事務員さんのミスにピリピリしたり、依頼者の相談に心から寄り添えなかったりする。だからこそ、自分のことを少しだけでも大切にすることが必要だとわかってはいる。けれど、それが一番難しい。手始めに散髪に行ってみようか、そんな気持ちになれた日には、少しだけ自分を取り戻せる気がする。
それでもまた切りたくなるときが来る
不思議なもので、ふと「あ、髪切りたいな」と思う瞬間がある。理由はわからないけれど、気持ちが前向きになっている証拠かもしれない。そんなときに予約を入れておくと、散髪というより“再起動”になる。髪を切っただけで、なぜか心が軽くなる。それを何度も経験しているはずなのに、また忘れてしまう。そしてまた、思い出す。
気持ちを立て直したくなる瞬間がある
例えば登記が無事完了した日、久しぶりに外出して青空を見上げた瞬間、ふと髪が気になって「切ろうかな」と思う。そういう些細な感情を拾っていくことが、自分を立て直す第一歩になるのかもしれない。忙しい毎日でも、気持ちをリセットするスイッチが必要だ。
元気を出すための儀式としての散髪
髪を切るだけで何が変わるんだ、と言われたら、正直大したことは変わらない。でも、「変えよう」と思った心が何よりの変化だ。散髪はその象徴であり、儀式のようなもの。元気を出すために、まず外見を整える。そこから少しずつ、生活や心も整っていく。だから、また髪を切りに行こう。理由なんて、あとからついてくる。