朝の来訪者
その朝、事務所のドアがぎこちなく開いた。湿った風と共に、スーツの襟を立てた中年の男が入ってきた。手には、くたびれた青い封筒を握っていた。
「すみません、ちょっと見ていただきたい登記簿がありまして……」男の声は低く、どこか焦っていた。私はまだコーヒーを口にしていなかったが、椅子を勧めて話を聞くことにした。
封筒の中から出てきたのは、十年前の不動産登記簿謄本。ざらついた紙の感触が、ただならぬ雰囲気を物語っていた。
玄関先の男と青い封筒
男は「兄が突然亡くなりまして……」と語り始めた。相続登記を依頼したい、という話だったが、問題はその物件に兄が住んでいなかったことだった。
「登記簿には兄の名があるんですが、実際には……誰も住んでなかったんです。近所の人も誰も見てないって」男の言葉に、私は一つ深いため息をついた。
やれやれ、、、朝から厄介ごとか、とコーヒーを諦めてPCを立ち上げた。
不動産の名義と曖昧な相続人
名義はたしかに兄のものだった。ただ、登記されたのは十年前。その前の名義人とのつながりが不明瞭で、権利の移転経緯に不自然な空白があった。
相続人として男は弟にあたるが、法定相続情報一覧図を出しても、誰一人その物件について語れないという。
「まるで、存在してないような家なんです」男の言葉に、私は妙な既視感を覚えた。
謎の依頼
依頼された相続登記は、通常の範囲なら数日で済む話だ。しかし、あの物件の資料を調べるにつれ、明らかに何かが隠されているとしか思えなくなってきた。
私は職業柄、怪しい匂いには敏感だ。今回の件も、ただの相続では終わらない気がしていた。
いつもならここで「まあ気のせいだろう」で済ませるのだが、今回は違った。何かが、妙だったのだ。
登記情報の不一致
市役所で確認したところ、建物の取り壊し届が出されていた。だが、登記簿上は建物が残ったままだ。つまり、誰かが「存在しない建物」に名義を残している。
サザエさんで言えば、家は壊れてるのに登記上は波平さんがまだちゃぶ台囲んでるようなものだ。
このズレが何を意味するのか、胸騒ぎがした。
消された過去の住所
さらに調査を進めると、10年前の住所移転届が何度も修正されていたことがわかった。まるで、誰かが意図的に足跡を消しているようだった。
私はこの時点で、相続の問題ではなく「誰かが意図的に仕組んだ何か」だと確信する。
こういう時は、登記簿の中よりも「登記簿の外側」に目を向けなければならない。
サトウさんの直感
「その家、本当にあったんですか?」
午後、戻ってきたサトウさんは、書類を見るなりそう言った。鋭い。私のように回りくどく考える前に、彼女は核心を突いていた。
「それって、架空の物件じゃないんですか?昔、土地だけの登記を使った詐欺とかありましたよね」と彼女は言う。
役所の資料室での違和感
資料室の係員は、「その家の図面は見つかりませんね」と困った顔をした。保存年限を過ぎて破棄されたにしては新しすぎる物件だ。
手掛かりは一枚のメモだけ。「〇〇組 土地開発課 渡辺」の名前が鉛筆で書かれていた。
私は古い探偵漫画でよく見る「消えた証拠とつながる一人のキーパーソン」の構図を思い出した。
空白期間の真相
何度も転出と転入を繰り返す記録がある人物が浮かび上がった。それは兄ではなく、兄の元同僚だった男だった。
その男の名は、登記には登場しない。だがその住所には一時期、確かに住んでいた記録が残っている。
しかも、火災保険金の受取人にその男の名が残っていた。これは偶然ではない。
住民票の転出と戻らない人
男は数年前、転出届を出したまま戻っていない。その時期と、建物の取り壊し届が一致する。
おそらく、彼が登記上の建物を意図的に破棄し、存在しない不動産で利益を得たのだろう。
だが、それがバレないよう、兄を名義人にした。そして今、兄は死んだ。
管理人の証言と雨の日の記憶
古びたアパートの管理人が口にした。「あの部屋?そういえば火事の後から誰も住んでないよ」
火事。そこから繋がる線が一気に浮かび上がった。偽装放火、名義のなりすまし、そして保険金。
登記簿は語らない。だが、語らせることはできる。私たち司法書士の仕事は、そこから先に踏み込むことなのだ。
やれやれの一手
結局、相続登記の前に不法行為の疑いで刑事告発という形になった。依頼人には申し訳ないが、司法書士として見過ごすわけにはいかなかった。
やれやれ、、、これでまたサトウさんに嫌味の一つも言われるだろうな。
でも、今回は自分でもよくやったと思える。相続より、もっと大きなものを整理できたような気がした。
古い謄本に残された鍵
最後にヒントになったのは、登記簿の余白に記された旧住所のメモだった。役所のミスか、故意かは分からないが、そこに真実が眠っていた。
古い記録は時に、過去の犯罪の墓標になる。だがそれを掘り起こすのは、登記簿という名のスコップだ。
私はそのスコップを握り続ける職業に、誇りを持っている。地味だけどね。
誰が得をしたのか
保険金を受け取った男はすでに行方不明。警察の捜査が及ぶのは時間の問題だろう。
依頼人の男には事情を説明した。彼は沈黙のあと「兄が騙されていたんですね……」とつぶやいた。
司法書士としての一件は終了した。だが、人間の欲と過去の重さは、今日もどこかで誰かの足を引いている。
真相とその代償
事務所に戻ると、サトウさんがポツリと言った。「結局、登記簿が嘘を暴いたってことですね」
私はうなずきながら、「いや、語っただけさ。俺たちが暴かせたんだ」とつぶやいた。
サザエさんの家には、秘密の地下室なんてない。でも、現実の家には、紙の奥にいくつもの嘘が眠っているのだ。
サインを偽った者
登記に残る偽筆、押印なき委任状、消された委任欄。すべてが一つの線になって結ばれていた。
私は再度コーヒーを淹れた。冷めたままのカップの中に、ようやく静かな時間が戻ってきたようだった。
だが、明日もまた、誰かが「おかしな登記」を持ってやってくるに違いない。
そして再び静けさの中へ
窓の外でセミが鳴いている。事務所の時計が午後五時を指していた。
サトウさんは無言で帰り支度を始め、私に背を向けたまま一言。「明日は普通の仕事だけにしてください」
やれやれ、、、できればそうしたいんだけどね。