依頼人が持ち込んだ登記簿
午前中、事務所に現れたのは見るからに疲れたスーツ姿の男性だった。彼は何も言わず、登記簿の写しを僕の机に置いた。見ると、一戸建ての所有者欄には、どこかで見たような名前が記されていた。
「この人、元カノじゃないですか?」と事務員のサトウさんが呆れたように言った。僕の脳内で、まるでサザエさんのオープニングのように、過去の恋愛失敗集がぐるぐると流れ出した。
一枚の写しに記された違和感
写しをじっと眺めていると、何かが引っかかった。通常の所有権移転登記ではあり得ない日付の並び、そして抵当権が設定されていないのに、買主の名義だけが変わっている。
「これは…単なる売買じゃないな」僕は呟いた。サトウさんはすでに法務局のオンライン検索画面を開いていた。冷静すぎて怖いくらいだ。
元カノとの再会は法務局で
数日後、僕は一人法務局に向かった。登記の詳細を調べるうちに、ある事実が判明した。現在の所有者、つまり元カノは、依頼人の伯父の家を、相続の際に「買い取った」ことになっていた。
だが実際は代金のやりとりがなかったことが、法務局に提出された書類から明らかになった。まるでキャッツアイのように、綺麗に持っていかれていたのだ。
思い出と登記簿のはざまで
書類を手に取ると、昔の記憶が蘇る。夜中に一緒に見た推理アニメ、名前のない公園での口論、そして別れの朝。僕は司法書士として、この名義変更の背景に何があったのかを探らなければならない。
「やれやれ、、、また厄介な案件だな」思わず口からこぼれた言葉を、受付の職員がクスッと笑って聞き逃さなかった。
サトウさんの冷静な一言
事務所に戻ると、サトウさんはすでに納税通知書と固定資産税評価証明書を用意していた。どうやら、元カノは実際には固定資産税を納めていなかったらしい。つまり、形式上の所有者でしかなかったということだ。
「これ、名義貸しですね」淡々とした口調で言われ、僕は軽くめまいを覚えた。まるで名探偵コナンの蘭姉ちゃんの空手チョップを食らった気分だ。
所有権移転の意図を読む
契約書を読み返すと、「贈与契約」と銘打たれてはいるが、その実、単なる名義変更に過ぎない。依頼人の伯父が誰かから逃れるために、一時的に名義を移したのだろう。
しかし、問題はなぜそれが「元カノ」だったのか、という点にあった。これは偶然では済まされない。彼女の関与には、何かしらの意味がある。
遺産相続と偽装売買の匂い
僕は市役所の相続課を訪れ、伯父の相続関係説明図を閲覧した。すると、ある登記情報が出てきた。伯父はすでに他界しており、遺言書には依頼人ではなく、元カノの名前が記されていたのだ。
サトウさんが一言、「依頼人、遺留分侵害されたんじゃないですか」とつぶやいた。その瞬間、事務所の空気が冷えた気がした。まるで事件の核心に触れたかのように。
元恋人の家族が隠したもの
どうやら、元カノは伯父の介護をしていたらしく、それを理由に財産を譲り受ける流れになったようだ。しかし、依頼人からすれば、それは納得できるものではなかった。
「愛が報われた形なんでしょうかね」とサトウさんが言う。その言葉の奥に、皮肉と哀しみが混ざっていた。
最後の証拠は固定資産税通知書
決定的だったのは、固定資産税の宛先が「依頼人」だったことだった。つまり、行政上はまだ依頼人が納税義務者として扱われていた。これは所有実態の証明となる。
「形式は彼女でも、実質は彼なんですね」サトウさんの言葉が事務所に響いた。僕は、司法書士としての役目を全うする決意をした。
書類の端に記された矛盾
僕は登記の原因証明情報を精査し、偽装贈与の疑いを明記した内容証明郵便を作成。依頼人に渡し、家庭裁判所での遺産分割調停を勧めた。
名義は変えられても、真実までは書き換えられない。それがこの仕事の奥深さであり、面白さだ。
事件の結末とそれぞれの選択
最終的に、元カノは自らの名義を放棄し、財産分割協議書が作成された。遺言の不備と事実関係が認められたのだ。依頼人は静かに頭を下げて帰っていった。
僕はぼんやりと、事務所の壁にかかったカレンダーを見上げた。どこかの探偵のように、灰色の脳細胞を使うことはなかったが、それでも一つの真実には辿り着いた。
名義の裏にある優しさと後悔
元カノが名義を受けた理由は、伯父の願いを叶えるためだった。愛でも利得でもない、ただの感謝の気持ち。それを思えば、依頼人の怒りにも少しの理解がにじむ。
「やれやれ、、、もう恋愛絡みの登記は勘弁してくれ」僕の愚痴に、サトウさんは軽くため息をついた。それは同意とも呆れとも取れた。
僕らの仕事は人の心も扱う
登記という硬い世界の中に、柔らかな感情が流れている。それを読み取るのが、司法書士の本当の仕事かもしれない。事務所に流れる静かな午後、僕はまた一件、心の整理も終えたのだった。
そして、電話が鳴った。新たな依頼の始まりだ。