雨の午後に届いた封筒
しとしとと降り続く雨の音に混じって、事務所のドアポストがカタンと音を立てた。 茶封筒の中には、やけに丁寧に折られた数枚の書類が入っていた。その一番上にあったのが、彼女の名前が記された委任状だった。 「彼女」とは、三年前に離婚した元妻のことだ。まさか、いまさら彼女からの委任が来るとは。
元妻の名前が記された委任状
委任状には、確かに彼女の名前があった。旧姓ではなく、僕と結婚していた頃の姓だ。 依頼内容は相続登記。それも、彼女の祖母名義の不動産に関するものだった。 「なんで俺に頼むんだ、他に司法書士なんていくらでもいるのに……」と、思わず呟いた。
奇妙な筆跡と押印の位置
違和感はすぐに訪れた。署名が微妙に違う。元妻の筆跡は、もっと丸みを帯びていたはずだ。 そして押印。印影が微妙に傾いていて、まるで上から力を加えて無理に押したようにも見える。 「これは……自分で書いてないかもしれませんね」その声は背後から、サトウさんだった。
サトウさんの違和感
彼女は黙って封筒の中身を机に広げていた。 印鑑登録証明書の日付と委任状の作成日が、微妙にずれていることをすぐに見抜いた。 「これ、提出する前に、いろいろ洗った方がよさそうですね」そう言いながら、さっさとパソコンを操作し始める。
印影のにじみと文字の癖
「にじんでますよ、これ。印鑑、朱肉じゃなくてインクでやってるかも」 インク印は、公式文書としては使用不可。だが、依頼人がそこまで知っていたとは思えない。 「だとすると……誰かが用意した?」僕の疑念が膨らみ始めた。
「これ、本人の筆跡じゃないですね」
「カ行の払いが変です、ほらここ。本人はクセで止めるはずです」 筆跡鑑定人じゃないのに、なぜそんなに見抜けるんだ。サトウさんはいつもながら切れ味が鋭い。 彼女の観察力は、すでに探偵級だ。まるで『キャッツアイ』の瞳ちゃんみたいだと、心の中でつぶやく。
依頼人の動揺
翌日、電話で呼び出した依頼人は、妙に落ち着きがなかった。 「奥さんと連絡は取ってるんですか?」と聞くと、「ええ、まぁ……」と曖昧な返答。 会話の端々から、どうやら彼女とはもう連絡が取れない状態らしいと察した。
急に書き換えを求めてきた理由
委任内容が「相続登記」から「所有権移転登記」に書き換えられていた。 しかも手書きで。これは公正な意思に基づいたものとは言いがたい。 「これ、急いで処理したい理由があるみたいですね」と、またもや背後からサトウさんの声。
空白だった委任範囲の項目
そもそも委任状の「委任する範囲」が空欄だった。それを後から書き加えた痕跡がある。 誰が、いつ、何の目的で? 書き加えられた筆跡は、どう見ても依頼人のものだった。 「やれやれ、、、これは事件の匂いがしてきましたね」僕の肩が重くなる。
離婚届に書かれた日付の謎
戸籍の附票を確認すると、離婚届の受理日と元妻の転出日が一致していなかった。 彼女はすでに別の町に転居していたが、依頼人はそれを知らないふりをしていた。 つまり、「連絡が取れている」と言ったのは嘘だったのだ。
不自然な時系列の発見
さらに調べると、彼女の祖母が亡くなったのは一年前。 なのに、委任状の日付は三か月前。普通、そんなに間が空いていたら、まず相談があるはずだ。 依頼人が祖母の不動産を狙っていた線が濃厚になってきた。
死後の署名という矛盾
「これ……もしかして、もう奥さん亡くなってるんじゃ……」 ぞくりとした。委任状に署名した日付のあと、彼女の死亡届が提出されている。 まさか、死後に書かれた書類? それは完全に犯罪だ。
やれやれ、、、一枚の紙から始まる騒動
一枚の委任状が、過去と現在を繋ぎ、偽装と罪を浮き彫りにした。 気軽に受任しなくてよかった。 こういうとき、サザエさんの波平だったら「バッカモーン!」と怒鳴ってただろうなと思う。
戸籍の附票で見えた行動の軌跡
彼女は転居後、入院していたことがわかった。 亡くなったのは、まさに委任状の日付から数日後。しかし本人が書いたとは思えない。 転院記録からすると、筆を握れる状態ではなかった。
別れたはずの妻の現在地
彼女はすでに墓地の中にいた。 確認のため訪れた墓前で、合掌したとき、不思議と怒りよりも悲しみの方が勝っていた。 「……結局、俺のこと、どう思ってたんだろうな」つぶやいても、彼女は何も答えなかった。
真相に迫る
委任状は偽造だった。印鑑もスキャンされたものをカラー印刷していたことが、鑑定でわかった。 依頼人は彼女の死を知りながら、それを隠し、不正に不動産を得ようとしたのだ。 これは刑事事件だ。僕たちは警察に資料を提出した。
浮かび上がる偽造の意図
彼女の祖母の不動産は駅前の好立地で、再開発の対象になっていた。 一筆で登記さえ終われば、数千万円の価値が出る。 つまり、狙いは金だった。ただそれだけのために、死者を利用したのだ。
誰が何のために委任状を作ったのか
依頼人は元妻のいとこだった。 彼女の離婚を機に疎遠になったが、祖母の財産にだけは執着を見せていた。 その人物が、死亡届を提出せずに委任状を作成し、不正登記を図った。
決定的証拠
印鑑登録証明書の写しに、不自然な加工があった。スキャン画像にJPEGノイズが混じっていたのだ。 「カラーコピーって、案外バレるんですよ」サトウさんの呟きは冷たい。 それは、僕よりもずっと冷静なプロの目だった。
印鑑登録証明書の落とし穴
市役所の発行日と、印影の写しが一致しなかった。 そもそも、実物はカラーでない。つまり、誰かが画像を貼り付けた可能性が高い。 それが決定打となった。
裏で糸を引いていた人物の影
依頼人は、すべてを認めた。弁護士もさじを投げていた。 「死んだ者は何も言わない」などと口にしたとき、怒りよりも虚しさがこみあげた。 僕たちは、司法書士としての正義を通すだけだった。
崩れ落ちる嘘
不動産は相続人全員の協議により、改めて正当に分割されることになった。 彼女の兄が遠方から来て、丁寧に礼を述べてくれた。 僕はただ、普通の仕事をしただけなのに。
偽造の動機と隠された遺産
遺産の一部は現金で、通帳が見つかったことで発覚した。 そこに至るまでに、何人もの思惑が交錯していたことを知った。 それでも真実は、紙と印鑑の中に隠れていた。
遺産分割協議書の裏側
新たな協議書には、彼女の名前はもうなかった。 空欄だった委任状とは対照的に、明確な意思で記された内容だった。 「やっぱり書類って、正直なんだな」僕はつぶやいた。
シンドウの一手
きっかけは、いつもながらの「うっかり」だった。 委任状の綴じ順を間違えて、サトウさんに叱られたとき、裏面の異常に気づいたのだ。 うっかりも、捨てたもんじゃない。
うっかりが導いた真実
そのページにだけ、ホチキスのあとがなかった。つまり、後から差し込まれた可能性がある。 まるでルパン三世の偽造パスポートのように、自然に見せかけた精密なトリックだった。 だが、僕らの目はごまかせなかった。
最後に笑ったのは誰か
「司法書士って地味だけど、たまには活躍するもんですね」 そう言って、サトウさんは僕にコーヒーを差し出した。 一口飲んで、僕はつぶやく。「やれやれ、、、」
事件のあとで
雨は止み、少し涼しい風が窓から入り込んできた。 誰もいない待合室で、書類の整理をする音だけが響く。 「サトウさん、今日は早く帰っていいぞ」僕の声に、彼女は無言で頷いた。
静かな日常に戻る事務所
一件落着とはいえ、どこか心が重い。 紙一枚で人の善意も悪意も見えてくる。 「それでも俺たちは書類と向き合うしかないんだな」と、独りごちた。
コーヒーを淹れるサトウさんの背中
背中越しに差し出されたカップには、いつもより少しだけ多めの砂糖が入っていた。 口には出さないが、彼女なりのねぎらいなのだろう。 「ありがとう」とだけ、そっと呟いた。