正本と副本の間に沈んだ恋

正本と副本の間に沈んだ恋

朝一番の登記簿謄本

一枚の副本に残された違和感

朝の法務局は蝉の声が遠く聞こえるだけで静かだった。冷房が効いたカウンターで受け取った謄本の束を、俺は事務所のデスクに無造作に置いた。副本の一枚に目を通した瞬間、何かが引っかかった。記載内容は正しい。だが、違和感だけがぬるりと残った。

それは、まるでいつもの味噌汁の中に一滴だけレモン汁が混ざっていたような、そんな微妙な感覚だった。司法書士というのは、日々この「違和感」と格闘する職業だ。俺は自分の勘を信じて、もう一度副本を読み返した。

ページの隅、そこに記された微かな修正痕。それは、ただの記入ミスだろうか。いや、何かを「塗り替えた」ように思えた。

塩対応と麦茶とスキャンミス

サトウさんが気づいた書式のずれ

「これ、スキャンしたデータ、妙に右下が歪んでませんか?」 サトウさんが麦茶を置きながら言った。まるで名探偵コナンが犯人のアリバイに穴を見つけたように、あっさりと。

俺が見落としたのは、日付欄のわずかな空白だった。申請日が数日ずれていた。それ自体はよくあることだが、正本と副本で「日付の書式」が違っていた。まるで、別々の人間が作成したように。

やれやれ、、、こういうときに限ってコーヒーを切らしているんだ。仕方なく冷たい麦茶をすすった。

登記申請書に記された見慣れぬ文言

依頼人の過去と妙な添付書類

申請書の備考欄に、「遺志による名義変更」と記されていた。通常、こんな曖昧な言い回しは使わない。そこに添付されていたのは、一枚の私文書。遺言ではなく、念書のようなものだった。

そこにはこうあった。 「この家を彼女の名前に変えることで、すべてを水に流すことにする」 —恋文か? いや、罪滅ぼしか? いずれにせよ、司法書士の目から見れば、これは“正規の方法”ではない。

俺の頭の中に、サザエさんの波平のような声が響いた。「そんな曖昧なことでは困るのじゃ!」 どうやら俺の正義感にも白髪が混じってきたようだ。

ふたりの登記識別情報通知書

正本と副本の間で揺れる記録

正本の識別情報には、現在の名義人Aの名前が記されていた。しかし副本のコピーには、Aではなく、かつてその不動産に住んでいたBの名前が記されていた痕跡があった。どう考えても、二重の申請がされている。

一体なぜ、過去の名義人の名前が混ざっているのか。これはただのミスではない。何かを“戻そう”とする意思が感じられる。

俺は一度椅子にもたれかかった。背中のシャツが汗で少し湿っていた。

元配偶者が残した不可解な印鑑

恋文のように綴られた補正理由

BはAの元配偶者だったことが、戸籍から判明した。さらに妙なのは、提出された補正書類に押されていた印鑑が、すでに死亡しているBのものだったことだ。

偽造か、それとも…。補正理由にはこうあった。「当初の意思を反映させるため、書類の一部訂正を行う」 意思とは誰の? 今生きている者のか、死者のか?

文字の癖は、Bのそれに似ていたが、完璧に一致はしていなかった。やはり誰かが、Bの筆跡をなぞっていた。

過去の登記履歴から消された名義人

筆跡の一致と恋の痕跡

古い登記簿謄本を調べると、かつてBが単独名義で持っていた時期があった。その後、Aと共同名義になり、最終的にはAの単独名義に。だが、その移転の際、贈与ではなく「売買」になっていた。

金銭の授受の証拠はなかった。つまり、事実上の“譲渡”だったのだろう。恋が破れ、家だけが残った。 その哀しみが、筆跡となって副本に残ったのかもしれない。

「愛してるなんて書けないから、登記簿で語ったんだな」 俺はそう呟いて、苦笑した。

やれやれ登記より人の心のほうが複雑だ

疑わしきは依頼人か第三者か

依頼人はAだったが、この補正にはAの手が加わっているようには見えなかった。むしろ、Aは「何も知らない」と強く否定した。では、誰が?

俺はサトウさんに言った。「やれやれ、、、また幽霊案件かもな」 「浮かばれませんね、書類にされた恋なんて」 彼女はそう言って、また麦茶を啜った。

この事件、いや、出来事の真犯人は誰なのか。それはたぶん、Bの想いだけが知っている。

かすれた副本と消えた申請理由

全てが始まった日付に注目せよ

副本の紙質は、いつもより古びていた。おそらく、数年前に作成されたものを、そのまま再利用したのだろう。その中の“消された申請理由”の跡を、紫外線ライトで照らすと、薄く「再婚による名義変更」と読めた。

しかし、再婚はされていなかった。つまり、これは書かれたけれど実現しなかった“未来”だったのだ。

登記は現実の記録であり、叶わなかった願いを載せる場所ではない。だが、人は時に、叶わなかった願いにしがみついてしまう。

サトウさんの推理と突きつけた正解

書かれなかった恋が暴いた真相

「この申請書、Bさんの生前に一度書かれた下書きじゃないですか?」 サトウさんはそう言った。 「でもBさんは亡くなった。だからその下書きを、誰かが使った」 「つまり、“彼女がこうしたかった”と信じた誰かがいたってことか」

俺は納得した。それはAではない。Bの妹だった。 妹は、姉の遺志を信じ、残された下書きをもとに申請しようとした。それが今回の副本だった。 だが正規の手続きではなく、書類の一部を改ざんして提出したことで、事件となってしまった。

法務局には報告し、すべて無効となった。恋の証明書には、なれなかった。

正本に記された罪と副本に宿った想い

終わらない恋は登記できない

俺は最後に、廃棄処分となった副本のコピーをもう一度見た。そこに記された旧い日付と、淡い筆跡。 それは確かに、恋だった。だが、制度の中には残せない種類の感情だった。

「登記って、やっぱり冷たいですね」 「逆だよ。冷たいからこそ、間違った情熱を止めてくれる」 俺はそう言って、彼女の手から書類を受け取った。

想いは副本に宿ったまま、正式な記録には残らなかった。それでよかったのだろう。恋は時に、記録されないほうが美しい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓