いつもと違う依頼の朝
朝、事務所に出勤すると、いつものように黙々と仕事を始めていたサトウさんの机に、一通の封筒が置かれていた。見慣れない茶封筒で、差出人の名前はなく、ただ「至急」とだけ赤文字で書かれている。私はイヤな予感を抱えながら、その封筒を手に取った。
封を開けると、中には登記識別情報の写しと、簡潔な手紙が入っていた。手紙には「夫が亡くなり、登記に問題がある気がする。至急、調査をお願いしたい」とだけ記されていた。差出人の名前は、岸本雪絵。聞き覚えのない名前だった。
机の上に置かれた封筒
この手の封筒が無言で置かれていると、だいたい碌なことがない。なんとなくサザエさんのオープニングで、カツオが釣り竿を持って出かけていって、結果的に波平に怒られる回のような。そんな未来がちらつく。
それでも依頼は依頼。封筒の中の書類を一つ一つ確認すると、どうやら不動産の所有権に関する問題らしい。ただ、それにしては書類が中途半端だった。
無言で差し出された登記識別情報
封筒の奥には、コピーされた登記識別情報が数枚だけ入っていた。見ると、所有者の欄に二つの名前がある。ひとつは亡くなった夫の名前。そして、もうひとつの名前が……消えかけた修正跡の上に、うっすらと浮かんでいた。
「これは……まさか二重登記か?」と呟いた私の隣で、サトウさんはすでに新しいファイルを開いていた。「司法書士の直感ですか?」と皮肉めいた声が飛んでくる。
依頼人は無表情な未亡人
午後、約束通りに依頼人がやってきた。黒い服をまとった岸本雪絵は、どこか冷たさの漂う目をしていた。悲しみよりも、焦燥が勝っているように見える。
「主人が亡くなって、遺産の整理を始めたら、見覚えのない土地が登記簿に載っていたんです。おかしいと思って司法書士の先生に頼もうと……」彼女の言葉には、何か含みがあった。
夫の死と奇妙な遺言
聞けば、夫の遺言には「雪絵にはあの土地を渡すな」と書かれていたという。あの土地とは、まさに今回問題となっている地所だった。遺言書の真偽はともかく、それが遺産分割協議を複雑にしていた。
私はふと「名義変更はどうなっているのか」と尋ねた。雪絵は首を振った。「登記は、昔のままです。主人が亡くなるまで、何もいじられていなかったはずです」と。
登記簿の中のもう一人の所有者
だが、登記簿には夫の名前の他に、もう一人の名義人がいた。しかも、名前は旧姓で記載されており、その後に訂正されたような痕跡も見られる。こうなると、ただの「登記ミス」では済まされない雰囲気だ。
「この名前、どこかで見たような……」私は自分の過去の案件記録を漁り始めた。名前の一部が古い相続登記と一致していることに気づくまで、そう時間はかからなかった。
サトウさんの冷静な指摘
「先生、ここの登記日付、他とずれてますよ」サトウさんが指摘したその一言が、流れを変えた。登記簿を細かく追うと、確かに一部の記載だけ、違う日付が混じっていた。
「それに、修正印もないですね」彼女はルーペを取り出しながら言った。「これ、偽造の可能性ありますよ。今なら軽微な過誤では済まされないやつです」
旧姓の一致と不自然な訂正
調べていくと、訂正された名前は、岸本雪絵の旧姓と一致していた。つまり、雪絵がかつてその土地に関係していた可能性が高い。だが、それを彼女自身は語ろうとしない。
この沈黙に、私は確信を持ち始めた。雪絵は、何かを隠している。もしくは、すべてを知っていて、それを私に解かせようとしている。
登記簿に刻まれた日付の矛盾
さらに精査すると、ある日付が浮かび上がった。昭和63年。今どきの登記簿には珍しい手書きの痕跡。おそらく当時の司法書士が誤って二重名義を作ったのではないか。
そして、その司法書士の名前には、見覚えがあった。私が研修生時代に出会った、老齢の登記職人。彼のもとを訪ねる決意を固めた。
現地調査という名の小旅行
昭和の面影を残す町並みに、私は懐かしさを覚えていた。「やれやれ、、、また電車で2時間か」小さくぼやいた声に、サトウさんは反応しなかった。
駅前で借りた地図を片手に、該当地へと向かう。そこには今も小さな平屋が建っており、誰かが住んでいる様子はなかった。
田舎町に残る古い地番
昔ながらの地番で、その土地の境界はかなり曖昧だった。近隣住民に話を聞くと、「昔、岸本って苗字の若い女性が住んでいた」と口を揃える。雪絵の過去が、少しずつ浮かび上がってきた。
「昔の恋人に財産を譲りたくなかったってことか……」私は地面を見つめながら、思わず呟いた。
元司法書士が語った過去
かつての司法書士は、もう引退しており、近所の喫茶店で静かに暮らしていた。彼は私を見るなり「ああ、その土地か……すまんが、あれはミスだった」と語った。
「若い女の子に頼まれて、急いで登記したんだ。今思えば、何かの企みだったのかもしれん」老司法書士は、自嘲気味に笑った。
埋もれた過去と二重登記の罠
全てのピースが揃ってきた。岸本雪絵は若い頃、その土地を別人名義で取得しようとしていた。そして、それが何十年も経って、今また浮かび上がってきた。
夫はそれに気づき、遺言で「雪絵には渡すな」と書き残したのだろう。だが、すでに登記には彼女の痕跡が残ってしまっていた。
名前を変えた人物の存在
さらに調査を進めると、彼女がかつて別人として名義を持っていた時期があったことが分かった。そこには仮登記の履歴が残っていた。
つまり、名義変更が表に出ないように、最初から仕組まれていたのだ。だが、それが時効で消えておらず、今の登記簿に“影”のように残ってしまっていた。
銀行との不自然なやりとり
最後の決め手は、銀行の担保履歴だった。夫の名義でローンが組まれていたが、実際には雪絵が連帯保証人になっていた記録が出てきた。つまり、土地を「持っていた」自覚はあったのだ。
彼女の言葉とは裏腹に、全てが彼女のための準備だったのだ。
事件は終わり 仕事は続く
「結局、全部彼女が仕組んでたってことか」私はコーヒーを啜りながら、報告書をまとめる。登記簿に残された痕跡が、最終的に真実を語ったのだ。
サトウさんが書類をそっと差し出す。「今日中に提出、ですよ」冷たい声だったが、その眼差しは少しだけ誇らしげに見えた。
コーヒー片手に書類の山
疲れ切った身体で、ファイルを閉じると、窓の外では夕陽が沈みかけていた。「やれやれ、、、もう一件、片付いたか」そう呟くと、また新しい封筒が机に置かれていた。
――次の事件の始まりだった。