却下理由はどこへ消えた
朝、机の上に置かれた分厚い封筒。その表書きには「却下通知」とだけ書かれていた。見覚えのある事件、見覚えのない却下理由。申請が通らなかったのは事実だが、理由の記載欄は空白だった。
サトウさんが目を細めて言った。「これは、、、なにか裏がありますね」。俺は一瞬サザエさんの波平が怒鳴るシーンを思い出しながら、そっとため息をついた。
司法書士歴20年。だが、こんな腑に落ちない通知を見るのは初めてだった。
朝の不機嫌な来客
申請人の藤井が朝一番で怒鳴り込んできた。「なんで却下されたんですか!? ちゃんと書類は出しましたよね!」
俺はコーヒーを口に含みながら、ちらっとサトウさんを見る。彼女はすでにPCで登記情報を確認していた。黙っていても、次に何をすべきか分かっている。
「落ち着いてください。こちらでも原因を調べますから」と言いながら、俺の頭の中ではすでにいくつかの可能性が浮かび始めていた。
却下通知という名の伏線
通知書の形式は間違いなく法務局のものだった。しかし、不思議なのは、却下理由の記載がごっそり抜けている点だった。まるで「書き忘れた」かのように。
申請人の藤井は「原本提出もしましたし、補正もしてないんで却下はありえません」と憤っていた。が、何かが変だった。俺の中の探偵魂がざわついていた。
「これ、登記官のミスじゃないですか?」サトウさんがぽつりとつぶやいた。俺はうなずいた。「可能性はある。ただ、、、それだけじゃない気がする」
サトウさんの沈黙と冷たいコーヒー
「冷めましたよ、コーヒー」
サトウさんが無表情にカップを指差した。俺は言い訳のように苦笑いを浮かべながら、書類の束をめくっていた。どうしても、一枚の書類が見つからない。
「委任状、、、なかったっけ?」その一言に、サトウさんの指が一瞬止まる。彼女の表情がピクリと動いた。
書類に潜む違和感
申請に必要な書類の控えはすべてある。だが、なぜか委任状だけが抜け落ちていた。申請人は「確かに渡しました」と主張している。
「郵送? それとも持参でしたっけ?」俺の問いに、藤井は「持ってきました!」と即答する。だが、それを確認できる証拠は、どこにもなかった。
「もしかすると、、、俺が、うっかり、、、」言葉を濁した俺に、サトウさんが氷のような視線を向けた。
机上の空論と実務の溝
法務局のマニュアル通りに進めても、現場では“空白”が生まれることがある。それはたいてい、人間のせいだ。
俺がうっかり原本確認をせずに控えだけコピーし、封入した可能性はゼロではなかった。だが、それにしても登記官の対応が不自然だった。
記載漏れ? 故意? あるいは、、、別の意図?
消えた委任状の行方
再度、封筒の中をすべて確認した。中に入っていたのは申請書、登記原因証明情報、住民票、印鑑証明書、、、やはり委任状は入っていなかった。
だが、サトウさんが持ってきたスキャンデータに、委任状の画像があった。つまり、どこかの時点で手元にはあったのだ。
「これは、、、誰かが抜き取った?」俺は思わず声に出していた。
原本の保管はどこだったか
封筒に入れる前の原本は、受付棚の上にあった。それを確認して封入した、、、はずだった。
しかし、あの日は急ぎの案件が3件同時に入り、電話も鳴り止まず、俺の机は戦場だった。「ありえない」と言い切れる状況じゃなかった。
「やれやれ、、、」思わず口をついて出たその言葉に、サトウさんが小さく吹き出した。「気づいてたなら、最初に言ってください」
郵送か持参か それが問題だ
封筒の送り状には俺の字で「持参」と書かれていた。が、封筒の封はサトウさんの字だった。つまり、最終的に誰が封をしたか、あいまいになっていた。
「これ、、、もしかして、、、」俺とサトウさんが同時に口を開いた。「受付に来てたあの税理士、、、」
たまたま事務所に来ていた別の依頼人が、封筒を動かした可能性が浮かんだ。
司法書士会の壁
一応、登記官に「却下理由が書かれていない件」について確認を入れた。だが、返答は「文書の通りです。必要書類が不足していたので」だった。
「いや、それじゃ説明になってないでしょうが、、、」俺の声は受話器の向こうへ吸い込まれていった。
そこに壁があった。分厚い、無表情な行政の壁が。
電話はつながっているのに
登記官は確かに対応してくれた。だが、それはまるで探偵漫画に出てくる無口な刑事のように、核心には触れず、形だけの応答だった。
本当のことを知っている顔をして、何も言わない。そんな態度だった。
その沈黙が、何よりも不気味だった。
役所より怖い内部規定
司法書士会に相談を持ちかけた。が、「内部的な手続きですので」と言われ、門前払いを食らう。手続きの不備に関する苦情は、あくまで申請人本人からでなければならないとのことだった。
こういう時、味方がいない職業ってのは、ほんとつらい。
「だからモテないんですよ」サトウさんのボソリとした一言が、俺の心にしみた。
申請人の証言に揺れる午後
藤井から再度電話があり、「もしかしたら、入れ忘れたかも、、、」としぶしぶ認めた。拍子抜けしたが、どこかホッとした。
だが、俺の中にはまだモヤモヤが残っていた。書類のどこかに、まだ何かある。そんな予感が消えなかった。
そこにサトウさんが、新たな資料を見つけて持ってきた。
「私は出したと思っていた」
申請人のこの言葉が、すべてを象徴していた。人の記憶は曖昧だ。そして俺たちは、その曖昧さの中で仕事をしている。
確認し、チェックし、再確認する。それでもミスは起こる。
だからこそ、最後に大事なのは“人”なのだと思う。
名前の筆跡が語ること
封筒にあった委任状の写し。そこに書かれた筆跡が、藤井のものと微妙に違っていた。細かく比べると、微妙なズレがある。
つまり、誰かが代筆した可能性がある。だが、それを証明する手立てはない。
「これ、出せないですね」とサトウさん。俺は静かにうなずいた。
サトウさんの推理と元野球部の直感
「じゃあ、どうやって再提出しましょうか?」
サトウさんの問いに、俺はグラブを構える野手のように、静かに構えた。「まずは、正しいフォームを作ってから、しっかり投げる。再登板だ」
元野球部として、フォームの大切さは身に染みている。
やれやれ 俺の出番かもしれない
結局、最初からやり直すしかなかった。だが今回は、委任状のコピーを3部作り、郵送と持参の両方で提出するという万全の構えだ。
「やれやれ、、、」俺はもう一度つぶやいた。
サトウさんが黙って予備の朱肉を机に置いた。その意味は、言葉にしなくても分かった。
フォームの記入欄に隠された罠
そして最後に気づいたのは、法務局の新しい申請様式だった。以前と少しだけフォーマットが変わっていたのだ。
そこに、委任状の要否を示す小さなチェック欄があった。見落としがちな、しかし致命的な罠だった。
「まるで推理漫画のラストページですね」俺のつぶやきに、サトウさんが少しだけ微笑んだ。
登記官の微笑とひとつの訂正印
再提出した申請は、あっさりと通った。訂正印が押された通知が届いたとき、俺は少しだけ、勝った気がした。
窓口で対応した登記官が「今回は大丈夫でした」と、意味ありげに微笑んだ。
その笑顔が、何よりも怖かった。
事件は書類の中で完結する
誰かが悪かったのか? それとも皆が少しずつ足りなかったのか? 答えは分からない。
だが、事件はこうして静かに幕を閉じた。まるで何もなかったかのように。
そして、次の封筒が、また俺の机の上に届いていた。