焼きたてのメロンパンと朝の電話
朝の事務所にはメロンパンの甘い匂いが漂っていた。買ってきたのはもちろんサトウさんじゃない。俺だ。コンビニの袋を見たサトウさんが「糖質、多いですね」とだけ言った。
その瞬間、電話が鳴った。受話器を取ると、女の声だった。「元彼から贈与された不動産を、彼の親族に返すように迫られている」と。
なんだそれは、と思ったが、話を聞くうちにどうやら登記絡みの話らしい。俺はまだメロンパンの袋を開けてもいなかった。
サトウさんの無言の圧
サトウさんは受話器を置いた俺の顔を見て、無言でPCを開いた。たぶんもう、法務局の閲覧サイトにアクセスしている。
「やれやれ、、、」と思わず口からこぼれる。メロンパンは、すでに冷えかけていた。
依頼人は昼過ぎに訪れた。赤いマニキュアにサングラス。それでいて声は震えていた。「彼に裏切られたかもしれない」と。
登記簿に残された恋の痕跡
登記簿謄本を見ると、確かに贈与による所有権移転がなされていた。しかも、三年前の日付だ。依頼人が言うには「その頃は彼とまだラブラブだった」とのこと。
その後、彼とは別れ、今になって彼の兄と名乗る人物から連絡が来た。「名義は間違いだったから返してくれ」と。
贈与は一方的な意思表示だ。だがそれが「錯誤」であったと主張されれば、話はややこしくなる。
所有権移転と贈与契約の違和感
俺は書類の写しを見て、ふと手が止まった。贈与契約書の日付と登記の日付が一致していない。契約は平成から令和へ変わる頃、登記は半年後。
「これ、どう見ても後付けだな」俺がつぶやくと、サトウさんが「贈与契約書の署名、これ複数の筆跡ですね」と言った。
それにしても、よく見てる。塩対応のくせに、鋭すぎる。
過去の登記と現在の感情
恋は盲目、とはよく言ったものだ。贈与を受けたときは、彼と結婚するつもりだったらしい。確かに、契約書には「内縁予定者に対して」とあった。
だが、その後彼は別の女性と籍を入れ、依頼人とは自然消滅。そして今、「返せ」と迫る。
もはやこれは恋ではなく、登記に残った亡霊のような感情だ。
元カレは不動産業者だった
さらに調べると、元カレは地元の不動産業者。物件を囲い込んで、名義を操作していた過去があるという噂も出てきた。
やっぱりな、という感想しか出てこない。依頼人は、感情でなく戦略に巻き込まれたのだ。
こうなると、感情を武器にしてはいけない。必要なのは証拠と手続きだ。
メロンパンと契約書の日付
メロンパンを一口かじって考える。贈与契約は有効か? おそらく、無効を主張してくる側は「錯誤」または「脅迫」を持ち出す。
しかし、依頼人のLINE記録と、彼から送られた「これで未来を一緒に歩こう」というメッセージがあれば、「意思はあった」と主張できる。
恋の証明は、皮肉なことに電子データに残っていた。
サトウさんの読みと缶コーヒー
サトウさんが俺の机に缶コーヒーを置いた。「冷たいですけど、どうぞ」とだけ言った。
「この登記、残していいですよ」とサトウさん。「恋って、愚かですけど、形式には勝てません」
うん、勝てない。だから俺たち司法書士が必要なんだ。
真実は登記の記述ミスに宿る
彼が今さら贈与の意思がなかったと主張しても、記録と証拠は消えない。そもそも法務局は、申請時に本人確認も行っている。
そして登記理由証明情報には、依頼人自らが「受贈を希望した旨」の記述があり、元カレの自署がある。
消せるのは恋心だけで、登記簿は嘘をつかない。
やれやれ、、、また俺の出番か
俺はPCに向かい、所有権保全に向けた必要書類を確認する。依頼人に事情を説明し、もし争われたらこちら側で立証できる点を整理した。
「やれやれ、、、また俺の出番か」とつぶやいたとき、サトウさんがくすっと笑った。
いや、それ笑うとこじゃないから。
依頼人の涙と遺されたマンション
数日後、依頼人は再び訪れた。「あの人、取り下げました。『悪かった』って」。泣きながらそう言った。
結局、元カレは罪悪感に負けたのか、それともこちらの準備の周到さに降参したのか。
どちらにせよ、戦わずして守った。不器用な恋の城を。
彼女の恋は贈与で終わっていた
恋はもう終わっていた。だが、それが形として登記に残り、証明され、そして守られた。
それでよかったのかは、俺にはわからない。だけど、彼女は静かに礼を言って帰っていった。
メロンパンはまた、明日買うことにしよう。
司法書士が語る恋の終止符
恋の終わりに、司法書士ができることは多くはない。ただ、事実を積み重ねて、法的に保つだけ。
それが誰かの気持ちに報いることもあれば、報われないこともある。
でも俺は、今日も机に向かう。冷えた缶コーヒーを飲みながら。