誰かの問題を片付けるたびに自分が遠ざかっていく

誰かの問題を片付けるたびに自分が遠ざかっていく

人の困りごとに敏感な性格が仇になることもある

昔から「困っている人を放っておけない」と言われてきた。そう言われると悪い気はしない。でも、それが仕事となると話は別だ。司法書士という職業は、ある意味“困っている人を助ける”ためにある。登記や相続、借金問題や成年後見まで、悩みごとのオンパレードだ。人の人生の節目に関わる分だけ、当然こちらの時間も心も削られる。そのうえ事務所を一人で回していると、誰かの事情に振り回されるうちに、自分の予定や体調のことが二の次になることも多い。気がつけば「また今日も自分のこと何も進んでないな」とつぶやいている。

頼られるのは悪くないが疲弊する理由

信頼されているからこそ相談される。それは間違いなく嬉しい。でも、問題は「限界が来ていても断れない」自分だ。たとえば午後に役所へ提出に行く予定があるのに、急な来客。「ちょっとだけ話を聞いてほしい」と言われれば、断る勇気もなく応じてしまう。結果、提出は明日回し。これが積み重なると、本来やるべきことがどんどん後ろにずれていく。疲れた心に鞭打ちながら、「自分のやるべきこと、今日も進んでないな」と落ち込む日もある。

「あの人なら何とかしてくれる」の重み

司法書士として長くやっていると、「稲垣先生に相談すればどうにかなる」と勝手に思われるようになる。それは信頼の証であり、名誉でもある。でも、同時に「最後は押しつけても何とかしてくれる人」という立ち位置にもなる。無意識に「この人なら甘えてもいい」と思われるのだ。正直、その期待の重みが肩にのしかかってくることがある。たまに「俺は便利屋じゃない」と言いたくなるけれど、言えずにニコニコしてしまう。自分の弱さを隠すために。

自分のことを後回しにし続けたツケ

最近、健康診断に何年も行っていないことに気づいた。家の掃除も、書類の整理も、後回し。事務所の備品も壊れかけのまま。人の仕事は早くこなすくせに、自分のことには驚くほど無関心。結局、自分を後回しにしているというより、「自分のことを考える余裕がない」状態になっていた。昔はもう少し自分にも優しかった気がする。でも今は、誰かの問題を処理しているうちに、自分という存在がどんどん薄くなっていくような気がしてならない。

優しさと自己犠牲の境目が曖昧になる日々

気づけば、誰かのために動くことが当たり前になっていた。喜ばれるのは悪くない。感謝されると嬉しい。でも、その繰り返しの中で「自分のための行動」をどこかに置いてきてしまったように感じる。最初は自分の選択だったのに、いつのまにか選べなくなっている。優しさと自己犠牲、その境目がどんどんぼやけていく日々の中で、「これって本当に自分の望んだ生き方だったっけ」と立ち止まることがある。

助けることで安心するクセ

人を助けることで、自分が価値ある存在だと思える。そんな心理が、たぶんどこかにある。だからこそ、頼られると断れないし、無理してでも応えたくなる。でもその「安心感」は刹那的で、終わったあとには空虚感が残ることも多い。まるで誰かのパズルを完成させたあと、自分のピースが一つなくなっているような感覚。誰かの安心と引き換えに、自分の時間や体力や気力が削られていく。それを「やりがい」として処理するのも、そろそろ限界かもしれない。

自分の感情を感じる時間がなくなる

気がつけば、「疲れた」とか「今日は休みたい」といった、自分の感情を言葉にすることすらなくなっていた。朝起きた瞬間からスケジュールとにらめっこ。誰と何時に会って、何を処理して、どの書類を今日中に仕上げるか。感情ではなくタスクで動いている自分に気づくと、なんだかロボットみたいで怖くなる。たまに一日オフにしても、何をしていいか分からずソワソワしてしまうのも、自分の気持ちを感じる習慣がなくなっている証拠なのかもしれない。

それでも断れない性分のしんどさ

「無理しなくていいんですよ」と言われても、「いや、できちゃうんですよね」と返してしまう。この性分、直そうとしてもなかなか難しい。たぶん、野球部時代に叩き込まれた「チームのために動け」という精神が、今でも根強く残ってるのだと思う。自分を後回しにしてでも、誰かのために動く。そうやって生きてきたからこそ、今さら「自分を優先する」なんて発想がピンと来ない。でもそれが今、じわじわと心を削っているのも事実なのだ。

忙しさの中で自分の人生がぼやけていく

朝から晩まで誰かの案件に追われていると、「自分の人生って何だっけ」とふと考えてしまう。司法書士という仕事は確かにやりがいがある。でも、そのやりがいに飲まれてしまって、自分自身のことが後景に追いやられていくような気がする。事務所に寝泊まりする日もあるし、休日にスマホを切る勇気もない。仕事は人生の一部のはずなのに、いつの間にか“すべて”になりつつある。それって、果たして健全なんだろうか。

午前中が誰かの相談で終わる日常

「ちょっとだけ話を聞いてもらえますか」から始まる午前中。気づけば昼。そんな日が週に何度もある。相談者の人生の重みが伝わってくるからこそ、雑に扱えないし、時間も気力も全力投球になる。だけど、終わった後に残るのは達成感ではなく、どこか抜け殻のような疲れ。その時ふと思うのだ、「自分の人生の話、誰かに聞いてもらったことあったかな」と。

気づけば「自分のための業務」が一番後ろ

優先順位をつけるとき、なぜか自分の業務は一番最後になる。日報の整理、帳簿の記帳、封筒の補充――全部後回し。結果、ミスが増えたり、余計に時間がかかったりして、自分で自分を苦しめる悪循環にハマる。これ、分かってるのに直せない。人の案件は遅れたら困るけど、自分のことは誰にも迷惑かけないから…という変な言い訳が、ずっと自分の中に根を張ってる。

心の中で「俺の番はまだか」とつぶやく

今日もまた、誰かの役に立った。でも、どこかで「俺はいつ自分のために生きるんだ」と思っている。その声はだんだん小さくなってきて、最近では聞こえない日もある。だけど、ふとした瞬間に湧いてくる。「俺の番はまだか」っていう声。それが聞こえるうちに、少しずつでも自分を取り戻す行動をしたい。このままじゃ、本当に誰かの人生の脇役で終わってしまいそうだから。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓