朝の来客と沈んだ表情
雨上がりの朝、事務所のドアが軋む音とともに開いた。傘をたたみながら入ってきたのは、中年の女性。手にした書類には、古びた登記簿の写しが綴じられていた。
「相続の相談を」と言いながらも、その目はどこかよそよそしく、そして少し怯えているようだった。話し始めるまでに、紅茶を一口飲むまでの時間がやけに長く感じられた。
シンドウは、なんとなく気配を察していた。「ただの手続きじゃなさそうですね」と、言葉にせずにはいられなかった。
不動産相談のはずが
話の筋はこうだ。亡くなった父親が生前に残した家を相続したいという。だが、その家の名義が本人の名ではなく、全く知らない「カワグチ」という人物になっているという。
「その名前に、まったく心当たりがないんです」
彼女の震える声は、何かを押し殺しているようだった。誰かに言いたくない真実が、そこに沈んでいると直感した。
微妙な間と視線の揺れ
話している途中、彼女はしばしば言葉に詰まり、視線を窓の外に向けていた。まるで登記簿の名義人の名前が口に出せない呪文であるかのように。
「あの…父が何かしたんでしょうか」と、ようやく絞り出すように彼女がつぶやいた。
サトウさんは、無言でうなずきながらメモを取っていたが、その指の動きは明らかに速くなっていた。
相続関係説明と違和感
戸籍と遺産分割協議書の整合を取りながら、シンドウは何度か首をかしげた。そこには明らかに、違和感があった。
特に、1988年に父親の住所が突如変わっている部分が気になった。理由が書かれていない。しかもそれは、例の「カワグチ」の登記とほぼ同時期だった。
「これは、、どうにも解せませんな」と独り言をこぼすと、サトウさんが「それ、10分前にも言ってましたよ」と冷たく返した。
戸籍と登記簿の食い違い
戸籍には一人っ子と書かれている。だが、登記簿に残る過去の名義人の住所地が妙に近しい。まるで家族であることを意図的に隠しているようだった。
登記簿を調べていくと、ある時期から名義人がカワグチに変わっている。そのときの移転原因は「贈与」。だが贈与税の痕跡も、贈与契約書も存在しなかった。
まるで、その家の歴史そのものが闇に包まれていた。
他人名義の土地に隠された事実
登記簿を繰るたびに、嘘と矛盾が浮かび上がってくる。特に気になったのは、土地の所有権が移転した際の司法書士の記録が、他の案件と違って妙に曖昧だった点だ。
住所の記載に消された跡、同じ住所に二人の人物の登録があった期間。すべてが「知らない人の名義」などという言葉では片付かない。
やれやれ、、、これはまた、厄介な山を踏んでしまったなと、シンドウは心の中でつぶやいた。
過去の贈与と行方不明の兄
サトウさんが調べた古い戸籍の附票には、かつて存在した「長男」の名前があった。すでに30年以上前に除籍され、行方は不明。
「兄なんていません」と言い切っていた依頼人の言葉が、ふたたび不気味に響く。もしかして、家族の中で語ることさえ許されなかった存在だったのか。
昔の贈与、それは家族が家族でなくなる儀式だったのかもしれない。
土地の売却が招いた亀裂
さらに調べていくと、当時父親が経済的に追い詰められ、その土地を長男名義にして売却しようとしていたことが判明した。
しかし売却は頓挫し、名義だけが兄に移ったまま凍結状態に。その後、兄は姿を消した。
「もしかしてその兄が…」と口にしたとたん、依頼人はうつむき、何も答えなかった。
近所の証言に出てきた名前
シンドウが近隣の古い地主に話を聞きに行くと、「ああ、カズヒロくん?あの子はええ子やったけど、ある日急にいなくなってねぇ」と、記憶の底から名前が出てきた。
カワグチカズヒロ。依頼人の“知らない名義人”とされていたその人物は、確かにこの家にいた。
「どういうことだ…」とつぶやくと、サトウさんが「一族の中で、消された名前ですね」とぽつりと言った。
サトウさんの冷静な分析
事務所に戻るなり、サトウさんはタブレットで法務局と戸籍データを突き合わせ、兄の転出記録を洗い始めた。
その姿はまるで探偵漫画の“冷徹メガネ女子”。机の上に散らばる資料をもとに、彼女は一つの仮説を組み上げていった。
「この家は“実質的”にはずっと依頼人の父親のもので、兄の存在を登記だけに封じ込めたんです」
役所の記録が示す移転理由
兄は市役所に転出届を出したきり、戻っていない。だが、数年前まで住民税が請求されていた記録が見つかった。
つまり「存在していない兄」が、どこかで生活していたということになる。
「もしかして…まだ生きてる?」とシンドウがつぶやくと、「それは…未登記の感情の問題ですね」とサトウさんは淡々と答えた。
昔の登記簿の片隅の書き込み
最後の鍵となったのは、昭和の手書き登記簿。備考欄にあった「居住実態あり確認済」との走り書き。
その横に、同じ筆跡で小さく「家族による移転意向確認済」と記されていた。
記録には残されなかったが、誰かが確かに、家族の事情に踏み込んでいた証だった。
シンドウの失敗とひらめき
「これで全部ですね」とサトウさんが書類を閉じかけたとき、シンドウが「あっ」と声を上げた。
彼は、依頼人から預かった封筒をずっと引き出しに入れっぱなしにしていたのだ。中身を確認すると、兄宛の未開封の郵便が一通。
消印は数ヶ月前。住所は、今もその家のままだった。
郵便物の見落としが鍵に
その中にあったのは、福祉事務所からの定期連絡。つまり、兄は今も行政の中で“生きている存在”として扱われている。
その事実が、家族の「沈黙の選択」を揺るがす決定打となった。
「あーあ、、、やれやれ、、、ほんとに手続きより気疲れのほうが重い」とシンドウは、天井を見上げた。
昔の住所から届いた通知書
その通知には、兄が再び生活保護申請をしていた事実が記されていた。しかも、世帯主の欄にはまだ「父の名前」が残されていた。
法的にはつながりが切れていても、行政上ではまだ“家族”だったのだ。
その記録が、依頼人の心の扉を少しだけ開いた。
真相を語る沈黙の相続人
数日後、彼女は再び事務所を訪れた。そして静かに語った。「あの人が…兄が、父に暴力を振るっていた時期がありました。でも父は、それでも兄を家族として扱っていました」
家を渡したのも、憎しみではなく“責任”のつもりだったのだろうと。
だからこそ、口に出せなかった。話せば、また誰かを傷つけると思っていたから。
遺産を拒んだ理由
「私、その家いりません。兄が使えばいい。私は…もう、あの家に戻る気もないですし」
その目は、かつての怯えから解放されていた。すでに彼女の中では、相続とは“権利”ではなく“整理”の行為になっていた。
それでも、記録として登記は必要だった。それが司法書士の役目だ。
家族を守るための嘘
長年沈黙してきた理由は、父の判断を尊重したから。そして、兄を再び社会から排除しないため。
「家族って、説明できないです」と彼女は言った。
「ええ、法じゃ割り切れませんよ」と、シンドウも応じた。
司法書士としての決断
結果として、彼女は相続放棄の意思を示し、名義変更ではなく“確認の登記”を行うことになった。
それは、過去を変えるのではなく、今を記録するための登記だった。
「サトウさん、こういう時って…何て書くんでしょうね」とぼやくと、「“心情による名義維持”とでも記しておけば」と事務的に返された。
登記の正しさと人情の狭間で
登記簿にはすべてが記される。だが、その背景にある感情は記されない。
それを知ることができるのが、たぶん司法書士の唯一の特権なのかもしれない。
「やれやれ、、、俺は記録係か」とシンドウはつぶやいた。
沈黙を記録に変える筆
今日もまた、静かに一本の線を引く。登記原因「現状確認による権利継続」。
誰にも理解されなくてもいい。本人と、その記憶が納得していれば。
それが、沈黙の証言だった。
事件後の日常と変わらぬ事務所
数日後、事務所にはまた新しい相談者がやってきた。今度は「相続人が多すぎて話が進まない」という話だった。
「こっちのほうが面倒くさいです」とサトウさんが冷たく言う。シンドウはまた、天井を見上げた。
やれやれ、、、今日も一日が始まる。
サトウさんの無言の労い
その日、いつもより少しだけ熱めのコーヒーが出てきた。言葉はないが、ほんの少しだけ優しさがこもっていた。
「…ありがとう」と言いかけたが、サトウさんはすでに席に戻っていた。
また、いつものようにキーボードを打ち続けている。
やれやれと空を見上げて
窓の外、曇り空の隙間から一筋の光が差し込んでいた。秋の始まりの風が、少し肌寒く感じる。
「やれやれ、、、」とまたつぶやき、シンドウは次の相談者の書類を手に取った。
司法書士の一日は、いつもそうして始まるのだった。