書類の山に埋もれた依頼
午前中から降り続く雨が、窓の外でじとじとと音を立てていた。机の上には、表題登記、所有権移転、相続関係の申請書類が積まれている。そんな中、びしょ濡れの男が事務所のドアを開けた。
「登記の相談をしたいんですが……」と彼は言った。僕は手を止め、書類の山から顔を上げる。見るからに急を要する雰囲気だ。
雨の日にやってきた男
男は40代後半、スーツの裾は濡れており、靴もぐっしょりしていた。彼は名刺を差し出しながら、離婚に伴う財産分与の登記について説明を始めた。だが、どこか話に一貫性がない。
「元妻とは合意していて、この書類に署名も押印も済んでいます」と、男は分厚い封筒から一式の書類を取り出した。僕は受け取りながら、ふと妙な既視感を覚えた。
依頼内容は登記の相談というが
一見すると、典型的な財産分与による所有権移転の申請書類だ。住所、氏名、評価証明書も揃っている。だが、目についたのは委任状の押印だった。どこか不自然な位置に、ぽつんと置かれた印影。
「これは……」とつぶやくと、背後でサトウさんが席を立った気配がした。彼女の目が鋭く書類を見つめているのが、背中越しでもわかった。
サトウさんの違和感
サトウさんは無言のまま書類を持ち上げ、光にかざして見つめていた。静かに、けれど確信を持った口調で言った。「この印鑑、捺したのはご本人じゃありませんね」
僕は思わず椅子から立ち上がった。なにかに気づいていたが、確信がなかった。サトウさんは、それをあっさりと見抜いたのだ。
書類の癖に滲んだ過去
委任状の文面は、他の書類とは明らかに書き方が違っていた。句読点の位置、字体の傾き、余白の使い方。そのどれもが、他人の手によるものであると訴えていた。
それは、まるで怪盗キッドの予告状のように、細部にトリックが潜んでいる。僕は思わず「やれやれ、、、」とつぶやいて、頭をかいた。
捺印が一つだけ違っていた
印鑑自体は本物かもしれない。だが、押し方が違う。朱肉の濃さ、枠の潰れ具合、他の契約書に押された印と比べて、あまりに違いすぎた。これは誰かが勝手に押したのではないか。
「もしかして、奥さんご本人は……」と僕が口にしかけたとき、男の顔色がほんの少し変わった。まるで何かを見透かされたかのように。
奇妙な委任状の秘密
さらにサトウさんが指摘した。「この日付、おかしいですね。元号表記なのに、令和六年の『六』が違う筆跡です」。まさか、そんな細部まで見ているとは……彼女の観察力に舌を巻いた。
印影や筆跡だけでなく、紙の質感にも微妙な差異があった。明らかに複数の時期に書かれた書類を継ぎ接ぎしたような不自然さが浮き彫りになってきた。
日付は未来を示していた
その中には、今日の日付より未来の日付が記載された文書すらあった。それはまだ成立していない委任の証だった。つまり、この登記は未遂の段階で申請されようとしていたのだ。
登記官が見落とせば通ってしまう可能性もあるが、それでは法秩序が崩れる。司法書士として、これは見過ごせない。
同一筆跡に潜む別人の意図
サトウさんは、他の文書との照合まで行っていた。筆跡を比べていくうちに、複数の「本人」が同じ人間の手で書かれていることが明らかになった。しかもそれは、依頼者自身の筆跡と酷似していた。
つまり、彼は代理人としての立場を偽り、元妻を装って登記を進めようとしていたのだ。
僕の推理はいつも空回り
「つまりこれは偽造委任状による不正登記申請ってことか……」と呟いたとき、サトウさんの「最初からそう言ってますよ」という視線が痛い。やれやれ、、、またしても先を越された。
僕は司法書士歴二十年、現場経験もそれなりにあるつもりなのに。どうしてこう、毎回詰めが甘いのか。元野球部キャッチャーの観察力は、もはや幻影か。
昼飯も食えずに思考停止
気づけば昼を回っていた。腹も減ってきたが、こんな状況でうどんをすする余裕などない。サトウさんは既に警察への報告資料をまとめ始めていた。行動が早すぎる。
「司法書士って、、、何屋なんだろうな」そんな独り言に、サトウさんは「犯罪の境界線を守る屋です」とさらりと返した。痺れる一言だ。
元野球部のカンも役立たず
「直感でわかった」と言いたかったが、実際にはサトウさんがいなければ完全に見逃していた案件だ。しかも彼女、昼飯はもうとっくに済ませていたらしい。僕がもたもたしている間に。
なんだか、また負けた気がする。
やれやれ、、、とサトウさん
「じゃ、あとは所轄に同行してもらいましょう」とサトウさんは淡々と言った。依頼者の男はうなだれながらも、「司法書士に頼んだのが間違いだった」とつぶやいた。
それを聞いた僕は、ちょっとだけ誇らしかった。やれやれ、、、それでも、僕らはまだ正義側に立てている。
判子よりも大事なもの
「シンドウさん、やっぱり最後に必要なのは職印じゃなくて“信頼”ですよ」サトウさんの一言に、僕はうなずいた。職印は物理的に証明してくれるものだが、信頼は僕らの根幹を支える無形の証だ。
それを、忘れてはいけない。どんなに朱肉が綺麗でも、そこに嘘があるなら無価値なのだ。
仕組まれた登記のトリック
この事件は、書類の真贋を見抜く目と、ちょっとした違和感を掬い上げる心がなければ見逃されていた。まるで名探偵コナンのような細部の追及。だけど、こちらは地味で現実的な戦いだ。
依頼者は代理人ではなく、当事者になりすました詐欺師だった。それが登記の前に明るみに出たのは、まさに奇跡的なタイミングだった。
依頼者は代理人ではなかった
調べてみると、元妻とは既に音信不通。彼女が署名したという記録も証言も存在しない。むしろ、彼女は不動産の共有関係をめぐり逃げるように姿を消していたという。
偽装された書類の裏には、長年の執着と偏執的な執念があった。
封印されていたのは証言だった
男は最後にぽつりと言った。「彼女が何を考えてたか、今でもわからないんです」。その言葉だけが本音だったのかもしれない。真実はいつも、紙の裏側にある。
僕は黙ってうなずいた。それ以上、言葉は不要だった。
真実が押されたのは僕の心
「こういう事件、また起きますよね」とサトウさんは言った。「ええ、確実に」と僕は答えた。だけど、またそのときも僕らは立ち会うのだ。真実の証明という役割に。
どんなに忙しくても、どんなに報われなくても、それが司法書士の仕事だから。
法務局への連絡前の葛藤
数分後、僕は法務局に電話をかけた。登記の受理を一時停止するように依頼する。その手の震えは、怒りか緊張か、いまだにわからない。
でも、それでいい。僕はうっかり者だが、時には役に立てる。それが、僕なりの“証明”だ。
最後に活躍するのは運か経験か
職印を捺す瞬間、ふと手が止まった。今回は出番がなかった。けれど、信頼を守った。それだけで、今日は充分だった。
やれやれ、、、もう少しだけ、事務所を続けてみようと思った。