依頼人は泣いていた
秋の雨が窓を叩く午後、事務所のドアが乱暴に開かれた。ずぶ濡れの年配女性が一枚の紙を握りしめていた。言葉にならない声で、登記簿が「おかしい」とだけ繰り返していた。
机に広げられたその紙は、建物の登記事項証明書。だが、そこに記されているはずの父親の名前が、見たこともない人物のものに書き換えられていた。
「相続の準備をしていたのに、家が…誰かのものになってるんです」女性は涙を拭いながらつぶやいた。
古びた一通の登記事項証明書
確かにその証明書には奇妙な点があった。登記の目的が「所有権移転」になっているにも関わらず、原因が「不詳」と記されていたのだ。登記簿で原因不詳など、そうそう見かけるものではない。
年月日は十年前。しかも登記の申請人欄には、代理人として「某行政書士」の名がある。
だがその行政書士は、既に廃業している人物だった。いや、正確には“廃業したことになっている”人物である。
相続登記のはずだった相談
当初の依頼内容は相続登記だった。父親が亡くなり、建物の名義を変更したい。よくある相談のはずだった。それが一転して、「父の家が知らない誰かのものになっていた」となると話は違う。
事務員のサトウさんは無言でパソコンを操作し、登記情報提供サービスから地番を検索していた。
「変ですね、前回の登記の申請者の住所…この町内ですね」彼女の言葉に、静かな緊張が漂った。
登記簿の空白
法務局で原本を閲覧することにした。そこには複写ではわからない細かな鉛筆書きや消し込みの痕跡があるからだ。
やはりあった。数行分、妙に空白になっている部分がある。登記官が後で訂正する余白として設けたようにも見えるが、それにしては不自然な空間だった。
そして奇妙なことに、登記完了証の写しが添付されていない。申請書副本もなく、残っているのはわずかに折れ曲がった受領印だけだった。
存在しない所有者の名前
登記簿上の所有者をネットで検索してもヒットしなかった。個人名ではなく、まるで存在しない架空の人物。しかも漢字表記が微妙に変則的だった。
「戸籍にもいない。住民票もない。幽霊みたいな所有者ですね」サトウさんがつぶやいた。
「幽霊か…いや、あるいは怪盗かもな」冗談めかして言ったつもりだったが、何かが引っかかった。
なぜか登記が途中で止まっていた
登記簿の動きが、平成で止まっていた。令和に入ってからは一切の変更がない。つまり、今の所有者は「登記されたまま」一度も動いていないということになる。
だが、その間に土地の評価が急激に上がっていた。再開発の影響で、地元では土地転がしの話が絶えない。
誰かがその家を“眠らせた”まま保持していたのではないか。持ち主不明とされる物件にしておけば、名義人を隠して土地を動かすこともできるのだ。
元名義人の行方
依頼人の父親が亡くなる前、誰かに家を「譲った」と言っていたという証言があった。だが、その「誰か」ははっきりしていない。
近所の人間は皆、口を濁した。だが、一人だけ酔った勢いで「書類を預けに来てた男がいた」と証言した。
その男こそ、問題の行政書士の名を語っていた人物ではなかったか。
死亡記事と照合されない過去
その行政書士は、十年以上前に病死したとされていた。だが新聞記事に死亡記事がなく、登記の時期と死亡の時期が微妙に重なっている。
もしや、誰かが「彼の名を騙って」登記申請をしたのではないか。廃業した専門家の名前を悪用すれば、書類上の整合性は取れてしまう。
やれやれ、、、サザエさんの中島くんの方がまだ素直に話してくれそうだ、と独りごちた。
行政書士の名を語る人物
土地家屋調査士会に連絡を取り、かつての登記申請に関わった人物を探る。そこで浮かび上がったのは、不動産業界で暗躍していた“名義屋”の存在だった。
彼らは名義だけを移して、実態は動かさない。税逃れや借金隠しのために利用されることが多い。
そして件の登記もまた、そうした“名義の取引”の一環であった可能性が出てきた。
サトウさんの推理が冴える
サトウさんが静かに言った。「この申請書、筆跡が二種類ありますね」
確かに見れば、数字の書き方が途中から変わっている。申請書は一見整っていたが、途中で誰かが書き足した可能性がある。
さらに、印鑑証明書の有効期限も切れていた。だが法務局の審査官は見逃していたようだ。
微妙に違う筆跡の申請書副本
それは、かつての探偵漫画で見た「遺言書のすり替えトリック」に似ていた。複数の筆跡を混ぜて、まるで本人が書いたかのように偽装する。
この登記申請書も、まさにそのトリックの応用だった。筆跡鑑定を依頼すれば、決定的な証拠になる。
しかしそれをするまでもなく、別の証拠が見つかってしまった。
役所の「うっかり」では片付かない矛盾
法務局の記録に残っていた電話メモに、「申請者本人が来局した形跡がない」と記されていた。
つまり、誰かが“書類だけ”を持って申請した。これが本物の代理人でなければ、完全に偽装登記である。
ここにきて、事件の輪郭が一気に浮かび上がってきた。
過去の仮登記が鍵だった
実は十数年前、今回の建物には一度だけ仮登記が設定されていた記録があった。所有権移転請求権仮登記。理由は「売買予約」。
仮登記の抹消もされておらず、そのまま放置されていた。だが、仮登記があるということは、本登記に変える「機会」が残っていたということになる。
そして何者かが、それを利用したのだ。
休眠仮登記の中に記された赤い鉛筆の跡
仮登記の書類に残された鉛筆の数字が浮かび上がった。かつてその家を狙っていた業者の名前と一致する取引ナンバーだった。
まるで「探偵物語」のような、昭和の香りがする手口に思わず苦笑する。
「まるで、過去からタイムスリップしてきたみたいですね」とサトウさんが珍しく微笑んだ。
平成から令和への罠
平成時代の仮登記を令和で実行登記に切り替えることで、誰にも気づかれずに所有権を“得る”ことができた。
しかも登記官も慣習的な流れで処理してしまい、不備が見逃された。まさに制度の死角を突いた犯罪だった。
あとは警察に通報し、行政書士会にも報告するだけだった。
真犯人の動機
動機はシンプルだった。借金。家を担保にしたくても、名義が他人では使えない。だから「元の名義人のふり」をして登記を操作した。
その家は、実質的には売却されず、ただの“紙の上の所有物”として操作され続けた。
しかし、いつかは現実とぶつかる。そしてその日が、今日だったのだ。
名義変更と生前贈与の境界線
名義を変えることは、実質的な所有権の移転につながる。だが、それが「同意のもと」だったのか「偽装」だったのかで意味がまるで変わる。
生前贈与と見せかけて、実際は騙し取ったもの。罪名が一気に変わる。
しかも今回は、証拠が揃ってしまっていた。
家族に隠していた借金の山
犯人は、依頼人の兄だった。失踪していたが、名前を偽って裏で動いていた。
親が亡くなる前に、自分に所有権を移すことで借金の担保に使おうとしていたのだ。
そのために、他人になりすまし、登記書類を偽造したのだった。
登記簿に浮かび上がった真実
一枚の登記簿は、まるでミステリのプロットのようだった。仮登記、死亡、なりすまし、筆跡トリック――。
「それにしてもよくできてましたね。下手な怪盗漫画よりもスリルがありました」
「そうだな…やれやれ、、、こんな仕事で胃に穴が開きそうだよ」シンドウは溜息をついた。
古い登記簿の中の新しい犯罪
昭和の仮登記を、令和で仕上げた男の罪は深かった。しかし同時に、制度の穴をついた冷静な頭脳にも寒気がした。
「制度に人の良心まで期待しちゃいけませんよ」サトウさんの言葉が刺さる。
「いや、せめてもう少し親切であってほしいけどな…」
最後の申請書を出しに行く
最終的には、正当な相続人である依頼人に名義が戻るよう、登記更正手続を進めることになった。
書類は整い、提出の準備が整った。シンドウはバインダーを手に立ち上がった。
その背中を、サトウさんが塩対応のまま見送った。
シンドウのうっかりが奇跡を呼ぶ
法務局へ行こうとした矢先、シンドウは印鑑証明書を忘れて引き返した。そのおかげで、依頼人の母親が届けに来た重要な戸籍謄本と鉢合わせる。
その中には、決定的な「養子縁組の記録」が記されていた。兄の関与が完全に否定される証拠だった。
「結果オーライってやつか…」と呟いたとき、珍しくサトウさんが微笑んだ。
塩対応の奥にあった笑顔
「次は忘れないでくださいね、印鑑証明」
「え、ああ…はい」
シンドウは慌ててうなずいた。
そのとき、彼は思った。やれやれ、、、まだこの事務所でもう少し頑張れそうだ。