夜の来訪者
午後八時、そろそろ帰ろうかと思っていた矢先、事務所のドアが控えめにノックされた。開けると、黒縁眼鏡の中年男性が立っていた。見覚えのある顔だった。
「シンドウ君だよね。久しぶりだな」
大学時代の同期だったオオヌキが、十数年ぶりに目の前に現れた。しかも、この時間に司法書士事務所を訪ねてくるとは、尋常ではない雰囲気を漂わせていた。
突然の依頼と旧友の名
オオヌキは、土地の売買に関する登記を急いで進めてほしいと言った。曰く、売主はすでに高齢で、体調も優れない。だから早く済ませたいのだと。
しかし、提示された資料にざっと目を通しただけで、どこか引っかかるものを感じた。名義が古く、書類に違和感があった。
「これは……法定相続分で処理したほうがいいかもしれないな」と呟いた途端、オオヌキの顔がこわばった。
サトウさんの冷たい視線
その様子を隣で見ていたサトウさんが、書類をパラパラとめくりながら言った。「この謄本、去年のじゃありません。発行日が平成です」
「令和になってもう何年経ってると思ってるんですか。まったく……」と呆れた様子でため息をついた。
やれやれ、、、まるで波平に叱られるカツオのように、俺は目を逸らした。
消えた土地の謎
謄本には確かに、売主の名が記載されていた。しかし、別紙の固定資産税評価証明書には、まったく別の人物の名が書かれていた。
しかも、土地の地番と実際の場所が一致しない。どうにも腑に落ちない点が多すぎる。
サトウさんが一言、「所有者不明土地の可能性もありますね」と呟いたとき、背筋がゾワリとした。
登記簿に残された違和感
登記簿には、平成初期に「死亡による相続登記未了」とされている記録があった。それ以来、一度も変更されていない。
つまり、名義人はとうの昔に亡くなっているはずだ。それでも登記を放置していた理由とは何か。
オオヌキは何かを隠している。それは間違いないと、俺の野球部の直感が告げていた。
過去と現在を繋ぐ書類
昭和から続く土地の歴史。相続人が複雑に枝分かれし、誰が本当の権利者なのかすら曖昧だった。
登記に詳しくなければ、誰も気づかないような落とし穴が、いくつも仕掛けられていた。
俺たちは、それら一つひとつに足を取られないように、慎重に紐解いていくしかなかった。
司法書士しか気づかない矛盾
登記原因証明情報に書かれた「贈与」の日付が、名義人の死亡日より後だった。
死んだ人が贈与を行うはずがない。これは明らかに作為だ。
「完全にやってますね」とサトウさんが冷たく言った。
怪しい買主
買主は都内の不動産業者。だが会社の登記簿を見ると、代表取締役は一年前に退任しており、いまは別人が代表となっていた。
しかも、商業登記の住所は実在しないアパートの一室だった。
つまり、幽霊会社だ。これは明らかに、何か大きな企みの一部だった。
契約書に潜む虚構
契約書の印影が、明らかにコピーされたような違和感のある写りだった。
押印に使われた印鑑証明書も、過去のものと照合すると字体が微妙に違う。
こうした細部のズレは、法律職でなければ気づけない。だが、俺たちにはそれが見えていた。
役所でのひと悶着
市役所の資産税課で確認を取ると、登記情報と公図が一致していないことが判明した。
「この土地、昔は農地法の対象だったんじゃ……?」とつぶやくと、窓口の担当者が顔色を変えた。
どうやら、これは一筋縄ではいかない物件らしい。
調査士の証言
土地家屋調査士の古参が、過去に現地を測量したという話を持っていた。
「あの土地ね、実は境界が二重に引かれてるんだよ。しかもそれ、誰も訂正してない」
つまり、土地の範囲を巡って後々トラブルになる可能性が高い。これは決して「今だけ登記すればいい」話ではなかった。
司法書士の勘
オオヌキが何かに追われているのは間違いなかった。だが、だからといって手続きを強行していい理由にはならない。
「これは受けられません」と言ったときの彼の顔が、いまだに忘れられない。
だが、俺は司法書士。最後の砦である責任を放棄することはできなかった。
登記完了通知書に仕掛けられた罠
もし、あのまま登記を進めていたら、完了通知書を武器にさらなる不正が行われていたに違いない。
もしかすると、担保設定や転売で資金を引き出す計画だったのかもしれない。
危うく、俺のハンコで詐欺に加担するところだった。冷や汗が背中を流れる。
真夜中の現地調査
サトウさんが言った。「夜のうちに一度、現地を確認してみたほうがいいかもしれません」
ライトを片手に山林に入ると、そこには誰かが最近立ち入った痕跡があった。踏み荒らされた草、曲がった境界杭。
「誰か、ここの所有権を意図的にずらそうとしてますね」とサトウさんが小声で言った。
ライトに浮かぶ足跡
土の上に残された靴跡。それはまるで、忍び寄る怪盗のように不気味だった。
まるで『怪盗キッド』が月明かりに現れたかのように、不自然で堂々としていた。
そして、その方向に向かって俺たちは歩き出した。真相を掴むために。
黒幕の正体
翌朝、警察に情報を渡したところ、不動産業者とオオヌキは脱税と詐欺の疑いで捜査対象となった。
土地は架空売買のダミーとして使われ、名義貸しのような状態だったと判明した。
俺の直感は、またも的中したのだった。
遺産分割協議書の秘密
さらに調べると、協議書は相続人の一人が偽造したものだった。
印鑑証明書も古物商から入手した無断使用だったと分かった。
司法書士として、その真実に辿り着けたことが、せめてもの救いだった。
事件の結末
事件は報道されることなく、静かに処理された。だが俺たちには確かな達成感が残った。
依頼は受けなかった。それが正解だった。法律の枠組みを守る者としての矜持だ。
そして俺はそっとつぶやく。「やれやれ、、、また一日が終わったな」