朝イチの電話と沈んだ空気
朝8時半、事務所の電話が鳴った。まだコーヒーも飲んでいない時間帯だ。受話器の向こうの声は早口で、そして焦っていた。
「すみません、今日中に申請が必要で、どうしてもお願いしたくて…」
“またか”と思いながらも、断るには勢いが強すぎた。
「急ぎなんですけど」と言われた瞬間
急ぎと言われると、つい受けてしまう。昔からそうだ。野球部時代も「時間ないぞ!」と叫ばれたら、とにかく走った。
ただこの業界、急ぎの中には「落とし穴」がある。今回は、その典型だった。
サザエさんで言えば、波平が走ってネクタイ忘れてるパターンだ。
どこか引っかかる違和感
送られてきた書類一式を見て、すぐにピンときた。枚数は合っているが、何かが「整いすぎて」いる。
まるで他人の筆跡を模したような署名、端正すぎる捺印の押し方。
やれやれ、、、朝から一波乱かもしれない。
依頼人は誰よりも急いでいた
依頼人は建設会社の若手専務。年齢より老けて見えるが、それ以上に焦りが顔に出ていた。
「今日中に出さないと、地主との契約が無効になっちゃうんです」
そんなことあるか?と内心ツッコみながらも、表情には出さない。司法書士は、疑ってなんぼの職業だ。
青ざめた表情と未整理の書類
封筒の中身は乱雑だった。委任状、印鑑証明、契約書写し。どれも一応揃っている。
しかし、原本と控えが混在しており、順番もバラバラ。これは急ぎでなくても要注意のタイプだ。
「急いでるんで、すみません、よろしくお願いします」って言う人ほど、何かが抜けてる。
申請期限に追われる理由
話を聞くと、地主が高齢で、明日から入院するらしい。契約締結日を今日に合わせたのもそれが理由とのこと。
焦る気持ちはわかる。だが、焦って出したものほど、あとでブーメランのように戻ってくる。
「確認だけは丁寧にしておきます」とだけ告げ、作業に取りかかった。
サトウさんの冷静な分析
いつものように隣で書類チェックをしていたサトウさんが、ふと手を止めた。
「この委任状、旧住所のままになってますね」
彼女はさらっと言うが、それは致命傷に近いミスだった。
一行だけ抜けていた委任状
確かにそこだけ変更登記が未了のまま記載されていた。依頼人の会社の登記事項も整っておらず、そのまま提出すれば補正必至。
「差し戻しになったら、間に合わないかもですね」とサトウさん。
まるで探偵漫画の助手ポジションみたいな冷静さ。たまに、こっちが犯人にされそうになる気がする。
「これ、先方に確認取りました?」
私は依頼人に電話し、委任状の現住所記載について確認した。返ってきたのは「え、気づきませんでした…」という言葉。
やっぱり。急いでいると、人は確認を忘れる。書類仕事では、それが命取りだ。
「午後イチで差し替えもらえますか?」と念を押した。
書類の送付トラブル
昼をまたいで書類が再送されてきた。だが、そこに新たな問題があった。今度は「別送分」が届かない。
依頼人いわく、「そちらに届いてるはず」とのこと。
届いていない。これはまるで、探偵が最後のピースだけ持って逃げられた感じだ。
宛先を間違えたのは誰か
メールの履歴を見ると、添付ファイルの送信先が「.co.jp」ではなく「.com」になっていた。
これは…依頼人の入力ミス。しかも送信先の「.com」はまったくの別会社。
「やれやれ、、、」としか言いようがない。
謎の「別送分」と記された封筒
その日の夕方、郵便で封筒が届いた。差出人不明のレターパック。中には、問題の原本が入っていた。
「別送分」とだけ書かれた付箋がついていた。依頼人の奥さんが、勝手に送っていたらしい。
危うく行方不明書類として警察に相談するとこだった。
見えない誰かが情報を操作していた
事務所のパソコンの履歴を見ると、不自然なログが残っていた。未明にアクセスされた形跡。
私はその時間、家で寝ていた。サトウさんも出社前だ。
では、誰が?
サーバーログに残されたアクセス記録
調べていくと、依頼人の会社からのリモートアクセスだった。申請準備の参考に、とログイン情報を渡していた。
だがアクセスしたのは、依頼人の社内ではなく、その下請けの契約会社だった。
情報は勝手に共有され、勝手に操作されていた。善意の混乱が、トラブルを呼ぶ。
内部犯行の可能性
その契約会社は、依頼人の指示で情報共有していたらしいが、本人は把握していなかった。
ミスというより、想定外の連携ミス。よくある話だが、現場は振り回される。
「申請は僕らがやるんで、勝手に触らないでくださいね」それが伝わっていなかったのだ。
元野球部の直感が動き出す
どうもおかしい。書類の流れと時間軸を、頭の中で何度もなぞる。
…あれ?何かがズレている。
まるで試合中に「なんかピッチャーの癖がおかしい」と気づいたときのような、妙な感覚だった。
「あの時のノックと似てるな」
部活時代、フェンスぎりぎりでフライを取ったときの、あの違和感と似ていた。
書類の筆跡。午前に届いた委任状と、午後に差し替えられたものでは、印の押し方が違う。
…別人が押したか、あるいは、誰かが代筆したのか。
焦らされた先にある罠
急がされていたのは、こちらではなく、相手側だった。
地主の体調の件は本当だった。しかし、それを理由に別の書類で署名を済ませる計画が動いていたらしい。
依頼人は騙されていた。焦りの中で、偽造された委任状をそのまま通すところだった。
真犯人は誰だったのか
結局、地主の親族が署名を偽装していたことが発覚。申請後の権利移転でトラブルを起こし、遺産を先取りしようとしていたのだ。
依頼人は無実。だが、危うく加担させられるところだった。
書類ひとつで、人生が動く。そんな世界だ。
委任状に仕掛けられた小細工
筆跡鑑定で偽造が明らかになり、警察が動いた。司法書士としての出番はここまでだが、内心はヒヤヒヤだった。
「シンドウさん、あの時止めてくれてよかったです」と依頼人。
まあ、俺じゃなくて、サトウさんが止めたようなもんだけど。
急ぎを装った意図とは
急がせることで、誰も気づかずに通せると思ったのだろう。
だが、我々はただの代書屋じゃない。名前の通り、登記に命をかけている。
…とカッコよく言いたいが、現実は書類と格闘する毎日だ。
やれやれ、、、ギリギリ間に合った
結果として、申請期限は守られた。地主の入院も間に合い、契約も無効にならずに済んだ。
ただ、胃は確実に荒れた。コーヒーが胃にしみる。
やれやれ、、、やっぱり急ぎ案件はロクなことがない。
サトウさんの塩対応とささやかな称賛
「一応、ちゃんと終わりましたよ」と伝えると、サトウさんは「当然です」とだけ答えた。
それでも最後に「…まあ、お疲れ様でした」とだけ付け加えた。
それだけで、少し報われた気がした。
依頼人のその後
後日、依頼人から「またお願いしたいことがある」と連絡があった。
ただし「今度は余裕を持って」と、最後に笑っていた。
その言葉だけは、少し安心した。
あの一件がもたらした代償
地主の親族は偽造の件で逮捕され、相続に関しての話し合いは裁判所に持ち込まれた。
依頼人は第三者だったが、当分は影響が出るだろう。
それでも、「本物の書類」が残っていれば、道は続いていく。
急ぎの案件ほど慎重に
今回の件で改めて学んだ。急いでるからこそ、立ち止まって考える必要がある。
焦りと偽装は、相性がいい。だがそれを見抜くのが、我々の役目だ。
司法書士とは、今日もまた、書類と真実の間で生きている。
「急いでると言われたら、一呼吸おけ」
野球も、登記も、同じだ。焦って振れば、ボールは当たらない。
「急いでるんです」と言われたら、一呼吸おいて、全体を確認する。
それが、俺の流儀だ。