静かな来客と皺のある背広
司法書士事務所に現れた依頼人
その日、昼過ぎのうだるような暑さの中、ひとりの男性が事務所にやってきた。背は高く、年の頃は五十手前。第一印象は「きちんとした人」だったが、妙なことに目がいった。彼のスーツ、特に背中の部分に、奇妙な斜めのしわが刻まれていたのだ。
背広に刻まれた不自然な折り目
椅子にもたれたときに付くようなシワではない。明らかに、何か硬いものに長時間押し当てられていたかのような痕跡。まるで、電車の網棚に寝かされたまま朝まで放置されたような——と、どこかで見たような演出を思い出した。そう、あれは怪盗キッドが変装したときの演出だったか。
依頼された相続登記の違和感
書類は完璧なのに違和感が残る
依頼の内容は、亡くなった兄の名義で残された土地の相続登記だった。書類一式は整っていた。火葬許可証も、遺産分割協議書も、印鑑証明書も。なのに、胸の奥で妙なざらつきが残るのは、あの背広の皺が気になって仕方なかったからか。
不動産の登記簿と面積の食い違い
念のためにと登記簿を取り寄せてみた。すると、あるはずの土地の面積がなぜか少し削られていた。亡くなった兄が生前に売った形跡もなければ、地積更正もされていない。不動産は嘘をつかないはずだが、人間はどうだろうか。
サトウさんの冷静な観察眼
皺と日付と記憶の関係
「そのスーツ、昨日の夜から着てたんでしょうね」とサトウさんがぼそっと言った。彼女は椅子に座りながら、書類の端を指でなぞっていた。「背中の皺、乾いた汗の匂い、襟元の潰れ具合。全部、一晩寝てた証拠です」。——やれやれ、、、俺よりよほど探偵向きじゃないか。
ズレた証言と糸口の発見
依頼人は「兄の死亡を知ったのは昨日の朝」と言っていた。だが、彼の着ていたスーツが示すのは、もっと前から何かを知っていた可能性。死後の事務処理を“先回り”していた形跡が、布のしわから浮かび上がってくるとは。
亡くなった兄と隠された過去
昔の遺言書と現在の登記内容
調べていくと、十年前に書かれた公正証書遺言が見つかった。そこには、今の協議書と異なる配分が記されていた。特に、件の土地は全て「弟に譲る」と書かれていたのに、現在の登記ではなぜか他の相続人の名前も混ざっている。
遺産分割協議書の矛盾
遺産分割協議書の日付は兄の死後すぐになっていた。しかし、他の相続人たちの印鑑証明書の発行日が“死亡の前日”になっている。まるで、死を待たずして協議書が作成されたかのように。——そこに、サトウさんが放った一言が刺さる。
真実は背中が知っている
スーツのしわが示す犯行時刻
「この人、一晩中病室にいたのよ」。兄は療養中だった。亡くなる前の夜、病室には面会者がいたという記録がある。そして、その人物の服装が“濃紺の背広”だったと看護師は証言した。依頼人の着ていたスーツ、そのままだった。
アイロンをかけなかった理由
「アイロンかければよかったのに」とサトウさんが吐き捨てる。だがそれは結果的に証拠になった。完璧な書類も、完璧な計画も、あの皺ひとつで崩れた。真実は意外と地味なところに転がっている。名探偵コナンもそう言ってた気がする。
やれやれという前に証拠が動いた
無言の物証が語る決定打
依頼人は観念したように目を閉じた。兄の死を早めたのは、薬の過剰投与だった。彼が密かに持ち込んだ薬瓶の痕跡が、ゴミ箱から見つかっていた。「誰にもばれないと思った」と呟いたが、背広は嘘をつかなかった。
逆転する容疑と司法書士の一手
司法書士は刑事じゃない。でも、登記の世界には登記の推理がある。矛盾を拾い、証拠をつなぎ、紙と布の隙間から真実を掘り出す。俺の役割はその橋渡しだ。やれやれ、、、もっと楽な相続依頼がよかった。
サトウさんの一言と依頼人の崩壊
背広の皺が証明した嘘
結局、依頼人は殺人未遂と文書偽造で告発された。登記は無効となり、再度の協議が必要になった。俺たちはようやく一息ついたが、サトウさんの視線は冷たかった。「ちゃんと観察してれば、もっと早く気づけたでしょ」。
最後に頼れるのは布かもしれない
布は口をきかない。でも、語ることはある。ほんのわずかな皺が、命と罪の境界線を描く。俺は背広を見て、少しだけアイロンを買いたくなった。サトウさんに笑われそうだから言わないけど。