登記簿が告げた失踪
夏の終わりと不在の依頼人
蝉の声がやけに響く昼下がり、事務所の扉が開いて誰かが入ってくる気配がした。でも、誰も入ってこなかった。サトウさんが無言で机の前に立ち、ぽつりと一言。「今日の相談者、来ませんでしたね」。
予定には、土地名義変更の相談とだけ記されていた。依頼人は、年配の男性のはずだった。
怪しい登記簿の一文
依頼人が来なかったからといって、仕事がなくなるわけではない。棚から該当物件の登記簿を引っ張り出して内容を確認していたとき、妙な違和感があった。所有者欄に記されている名前と、申込書にあった名前が微妙に異なっていた。
字体は同じなのに、何かが引っかかる。まるで『ルパン三世』の変装みたいな、不自然な似せ方。
サトウさんの冷静な指摘
「これ、たぶん偽造ですね」。サトウさんが、あっさりと結論を出した。しかも、その声にはまるで感情がこもっていない。
「理由は?」と聞くと、タブレットで表示した署名照合表を無言で突き出された。筆跡が少しずつ崩れている。時間とともに変化するなら理解できるが、逆に整っていくのは不自然すぎた。
空き家になった家族の影
次の日、現地調査をかねて件の物件へ足を運んだ。田舎の集落の外れにある、立派だったであろう空き家。郵便受けには数ヶ月分のチラシが詰まっている。
ご近所のご婦人が近づいてきて、「あそこのおじいさん、しばらく見てないのよ」と教えてくれた。どこか『サザエさん』の花沢さんのような声だった。
隣人が語る過去の騒動
隣家の男性がぽつぽつと語る。「息子さんとはうまくいってなかったみたいですよ。土地のことで揉めててね。よく夜に怒鳴り合ってた」。
登記簿を手にしたまま、思わず眉をしかめた。家族内の不和、土地名義の不一致、不在の相談者――嫌な予感しかなかった。
書類の間に挟まれたヒント
事務所に戻って資料をもう一度見返すと、一通のメモが他の書類に紛れて出てきた。「委任状は使っていい。名前は合わせてある」とだけ走り書きされていた。
筆跡は、申込書と一致している。しかし登記簿に載っている名前とは微妙に違っていた。やれやれ、、、またか、と椅子にもたれた。
消えた委任状と偽造の痕跡
市役所で過去の資料を調べると、委任状が本来提出されていた形跡がなかった。これはもう明らかにおかしい。誰かが途中で書類をすり替えたのだ。
元野球部の体力を活かして、市役所と法務局を往復しているうちに、久しぶりに自分が司法書士だったことを思い出した。
登記簿に浮かぶもう一つの名前
古い登記簿をさらにさかのぼると、数年前に一度だけ短期間だけ他人の名前が記録された期間があった。その後すぐに現所有者に戻っている。
その一時的な所有者の名前こそ、今回の申込書にあった名前だった。つまり、依頼人は「元所有者」だったのだ。
管轄外の登記に潜む裏事情
法務局の別の管轄で、似た名前の人物が登記された物件がいくつかあった。いずれも短期間で転売されていた。
これはもう、いわゆる「転がし屋」の手口だ。つまり、土地を一時的に取得し、書類を整えて売却し、利益を抜いて姿を消す。
サザエさん的おせっかい隣人の証言
あの花沢さん似のご婦人が、もう一度現れた。「息子さん、数週間前に来てたわよ。誰かと一緒にスーツ着て。派手な車だったわね」。
その一言で、全てがつながった。依頼人本人はとうに亡くなっており、息子が偽造書類を使って登記変更を企てたのだ。
不動産屋のうっかりと真実の扉
物件を仲介した不動産屋に話を聞くと、売買契約書に貼られた印紙が不自然に新しい。「たまに依頼人が替え玉で来るんですよね」と営業マンは笑っていたが、それが事件の決定打になった。
印紙の発行日と委任状の日付が合っていない。それは偽装の証明だった。
真犯人は机の向こうにいた
サトウさんが静かに言った。「これで警察に出しましょう」。
僕は深く頷き、印刷した書類一式をファイルに綴じた。被疑者は既に消息を絶っていたが、不正登記と文書偽造での告発が可能になった。
やれやれの一言といつもの夕方
事務所の椅子に座り、深いため息をついた。「やれやれ、、、また事件か」。
夕焼けが差し込む窓の外で、蝉がまだ鳴いている。いつのまにか夏は過ぎていた。
事件のあとで飲む自販機コーヒーの味
事務所近くの自販機で買ったブラックコーヒーを、駐車場の片隅で一口飲んだ。苦い。でも、妙に落ち着く味だ。
サトウさんが少しだけ笑ったような気がした。もしかして、あれが「労い」だったのかもしれない。