午前九時の来訪者
登記所に届いた一通の相談
その朝、事務所の扉がきしむ音と共に開き、年配の男性が一人、そっと入ってきた。胸元には年季の入った書類ケース。どこか不安そうな顔つきで、受付のサトウさんを見つめている。
「登記のことで相談がありまして……」そう言って差し出したのは、昭和五十年の日付が入った一通の登記簿の写しだった。どこかざらついた紙の感触に、嫌な予感がよぎる。
僕はその紙を受け取った瞬間、なにか見落としてはいけない匂いを感じた。とはいえ、正直なところ朝から重たい話は勘弁してほしい。
沈黙する依頼人
依頼人は多くを語ろうとしなかった。ただ「弟が亡くなりまして…その遺産の一部が…」と、歯切れの悪い言葉だけがぽつりぽつりと落ちてくる。
まるで、サザエさんに出てくるノリスケが波平の叱責をかわす時のように、視線をあちこちに泳がせていた。嘘ではないが、何かを隠している目だった。
やれやれ、、、またこういう展開か。思わず心の中でぼやく。面倒ごとの予感しかしない。
古い登記簿の違和感
昭和の記録に潜む矛盾
書類の登記年月日と、添付された相続関係説明図を見比べると、微妙な違和感があった。登記は昭和五十年だが、記載された住所の地番が、当時はまだ存在しないものだったのだ。
まるでタイムスリップした記録のような登記簿に、僕は思わず額に手を当てた。「これは……誰かが後からいじったのか?」
過去の事実が、何者かの手によって塗り替えられている可能性がある。だが、どうやって、誰が、そして何のために?
筆跡が語る過去の影
古い登記記録に記された筆跡をじっと眺めていると、あることに気づいた。登記官の署名欄が明らかに筆跡が異なっている。一枚だけ、明らかに別人の手だった。
「これ、誰かが代筆してる…」そう口に出した瞬間、隣のサトウさんが「遅い」と呟いた。きっと彼女は最初から気づいていたのだろう。塩対応なのに無駄に鋭い。
それでも指摘してくれるのは、僕のことを信じてるから…ではなく、ただ見ていられないだけかもしれない。
サトウさんの冷たい視線
気づかぬふりの鋭い指摘
「昭和五十年当時、まだあの地番は使われていません。ということは、誰かが未来の情報を使って作成したということです」
サトウさんがキーボードをたたきながら言い放った。相変わらず声には感情がないが、その分析力はコナン君ばりだ。
「この登記官、今はどこに?」僕が尋ねると、サトウさんは淡々と「定年退職して、山奥で盆栽いじってるらしいですよ」と返した。昭和の闇は、意外と近くに潜んでいる。
やれやれ、、、僕はまた振り回される
依頼は土地の名義変更だ。ただし、変更するには、その登記が有効である必要がある。そして今、その根幹が疑わしいとなれば——話はすべて振り出しに戻る。
僕は登記官OB名簿にアクセスし、昔の知人をたどって、ようやく元登記官の連絡先を突き止めた。やれやれ、、、サトウさんの手のひらで踊らされている気分だ。
けれど、これが僕の仕事だ。司法書士としての。
証明書に現れた空白
行方不明の登記官の痕跡
ようやく訪ねた山奥の平屋。そこには盆栽を手入れする静かな老人がいた。「ああ、それは……」彼は記憶をたどるようにゆっくり語り始めた。
「当時、急な体調不良で休んだんです。その間、後輩が代理で署名したようですが……まさか今ごろ問題になるとは」
代理で署名した記録は正式な手続きを経ていなかった。つまり、その登記は形式上“無効”の可能性があったのだ。
ひとつの訂正印が示す真実
老人の話にあった“代理署名”の日、別の書類に押された訂正印が存在していた。それは代理で処理された証拠となりうる唯一の手がかりだった。
僕はすぐにその登記簿を管轄法務局で閲覧し、わずかな朱印を見つけた。その一つの印が、登記の“真実性”を補強する証となった。
この登記は“消せないもの”になった。静かな証人は、やはり記録そのものだった。
夜の司法書士会館で
古参職員の語る噂話
会館のロビーで古参の職員に会った。「あの登記官、当時けっこう緩かったらしいよ。まるで怪盗キッドの変装みたいに別人が対応してたとか」
半分冗談のような話だったが、現場の感覚は案外正確だったりする。登記の信頼性は、こうした人の手で支えられているのだ。
まるでアニメのような展開に、僕は少しだけ心が軽くなった。
登記官は何を見ていたのか
沈黙の理由とその代償
登記官は語らなかった。だが、その沈黙こそが制度を守る最後の砦だったのかもしれない。自らの不備を世に出すことは、プライドが許さなかったのだろう。
彼の沈黙が守った登記。それを今さら覆そうとするのは、誰のためなのか。僕には、その答えが見え始めていた。
依頼人の兄は、遺産を巡る争いを避けたかったのだ。ただそれだけのために、古い登記に火をつけようとしていた。
そして、封印は解かれた
静かなる証人の記憶
古い登記は、修正されることなく、そのままの姿で残ることとなった。すべての当事者が合意し、相続は無事に進められることに。
過去に触れることは、時として人を傷つける。しかし、真実を避けることはできない。静かなる登記簿が、それを証明してくれた。
記録は語らない。けれど、真実は記録の中で、確かに息づいていた。
塩対応と熱い正義の交差点
「まあ、今回はうまくいったんですね」淡々とした声でサトウさんが言う。僕は疲れきった顔でうなずく。「おかげさまでね」
「やれやれ、、、また胃が痛くなる展開だったよ」と僕が言うと、サトウさんは「今度、薬局に胃薬まとめて買ってきます」と返した。
冷たいけれど、やっぱり彼女の言葉は頼りになる。司法書士と事務員。正反対のようで、正義の一点で交わっているのかもしれない。