静かな朝と一本の電話
事務所の時計が8時45分を指していた。外は蝉の鳴き声がうるさく、夏の終わりを惜しむように響いていた。コーヒーを片手にデスクに座ると、古びた電話が鳴った。
「シンドウ司法書士事務所です」と言うと、くぐもった声の男性が、遺産相続の相談をしたいと告げた。声の調子から、なにやら訳ありな事情を感じ取った。
事務所に届いた遺産相続の依頼
男性は、亡くなった父親の土地建物について兄弟で分割するつもりだったという。しかし、相続登記を進めようとしたところで「何かおかしい」と気づいたのだと言う。
彼の話では、父の名義のはずの土地が、数年前に既に「一部名義変更されていた」とのことだった。家族にはその記憶がないという。
不機嫌なサトウさんと二人の兄弟
「まためんどくさそうな話ですね」と、サトウさんが塩対応で資料を受け取る。依頼者の弟は控えめな性格だが、兄の方は真逆で、事務所に来るなり声を荒げた。
「兄はいつもそうだ」と弟はぼそりとつぶやいた。家庭の空気に漂う何か重いもの。それが、この件の核心に関係している気がした。
遺言と登記簿の矛盾
遺言書には、二人に等しく財産を分ける旨が明記されていた。ところが登記簿を見ると、父の名義だった土地の一部が、すでに兄の名になっている。
しかも、名義変更されたのは数年前。父がまだ元気だった頃だ。しかし、依頼者の弟は「そんなことを父がするはずがない」と首を振った。
登記簿に記された意外な持分
調べてみると、変更された名義は50%の共有になっていた。ただ、父の死後に名義変更されたわけではなく、父が生きていた時期の手続きであることは明らかだった。
「これは贈与か、売買か?」とサトウさんがぽつりと呟く。売買契約書も贈与契約書も見当たらない。あるのは、登記簿に残された無言の証拠だけだった。
亡き父の過去と不審な履歴
古い書類を追ううちに、父が数年前に司法書士と接触していた記録を見つけた。どうやら、父はひっそりと登記の手続きを進めていたらしい。
しかし、その理由は謎だった。税理士の資料によれば、金銭の授受もない。つまり、これは売買ではなく「何か思いがあっての譲渡」だった可能性が高い。
隠された相続放棄の真相
さらに調査を進めると、弟は十年前に一度、相続放棄をしていた可能性が浮上した。別の相続の際に、借金の関係で一度すべてを放棄していたのだ。
その放棄が、今回の遺産にも影響を与えていた。父はそのときの判断を重く受け止め、「次に残すのは兄に」と決めたのかもしれない。
サトウさんの調査と法務局の記録
「念のため、法務局で当時の委任状を取り寄せます」とサトウさんが言い、数日後、決定的な記録が届いた。そこには確かに、父が兄に一筆を残していた。
「家庭の問題は複雑ですね」とサトウさんは淡々と言ったが、その目はどこか優しかった。
古い建物と消えた名義変更
問題となった土地の一角には、築五十年の木造家屋があった。そこはかつて母が住んでいた場所で、弟にとっては思い出の場所でもあった。
しかし、驚くべきことに、その家屋部分の名義だけが旧姓のまま残っていた。つまり、そこだけは一度も正式に名義変更されていなかったのだ。
権利証を巡る家族の嘘
サトウさんが倉庫から見つけてきた権利証の中に、一枚だけ古い筆跡のものがあった。それは父ではなく、母の名前が記されたもので、そこには「この家だけは残してほしい」と走り書きがあった。
どうやら、父はその願いを守り、弟に託すつもりで名義を変えずにいたのだろう。
兄弟の対立と浮かび上がる動機
兄は「父が勝手にやった」と主張し、弟は「父の意志だ」と反論する。話し合いは平行線のまま、一歩も引かないまま時間だけが過ぎていった。
けれど、事実が全てを変えた。母の手紙、そして父の走り書きの存在。それを前に、兄の顔から怒気が消えた。
なぜ兄は父の死後に引っ越したのか
兄は、父の死後すぐに家を出ていった。理由は「思い出が多すぎるから」だと言ったが、本当は違った。父の意志に気づいていたのだろう。
彼はあえて弟に譲るつもりで、争わないよう引っ越したのかもしれない。ただ、そのやり方が不器用で、結局こんな騒動を呼んでしまった。
母の遺品が語った最後の手紙
押入れの中から見つかった封筒には、母から父への手紙が入っていた。「あの子には、家だけは残してやって」と書かれていた。あの子――つまり弟への想いだ。
父はその願いを受け止め、静かに動いたのだ。名義の半分を兄に、家そのものは弟に。それが、彼の精一杯の分け方だったのだろう。
真実の解明と別れの理由
僕は、書類を整え、兄弟に説明した。二人は静かに頷き、深々と頭を下げた。こんな小さな司法書士事務所でも、人の人生に関わる仕事をしているのだと、改めて思い知らされる。
そして一連の手続きが終わった後、兄弟は再び顔を合わせることなく、事務所を後にした。たぶん、これが彼らなりの「別れ」だったのだろう。
司法書士としてできること
登記は事務的だ。でも、その背後には必ず人の想いがある。だからこそ、僕たちのような職業が存在しているんだと思う。
「やれやれ、、、」思わず椅子にもたれてつぶやいた。今日もまた、物語のような一日だった。
やれやれ、、、今回も疲れる事件だった
サザエさんの最終回みたいに、きれいに片付いたかといえば、そうでもない。でも、少なくとも一つの形を整えることはできた。
サトウさんは無言でお茶を入れてくれた。その気遣いが、なんだか嬉しかった。