朝6時30分、また今日が始まるという絶望
アラームが鳴るたびに、「また今日が始まるのか」とため息をつくようになったのは、いつからだっただろう。若い頃は、朝の時間に希望があった。今日はこう動いて、こんな風に段取りして…と考える余裕があった。でも今は違う。6時30分のアラーム音は、もはや「戦闘開始」のサイレンでしかない。司法書士という職業柄、時間に追われる生活は当たり前かもしれないが、だからといって毎日が同じ繰り返しである必要はあるのかと、ふと疑問に思ってしまう。
アラーム音が心を削る理由
最近、スマホのアラーム音が鳴った瞬間、反射的に嫌な気持ちになる。どんなに静かな夜を過ごしていても、あの音がすべてを台無しにしてしまう。以前は自分の好きな音楽をアラームにしていたのに、それすらも嫌いになった。仕事が忙しいだけでなく、「またあの一日が始まる」という予感が、自分の心に重くのしかかる。音そのものというより、それに紐づいた“義務”や“プレッシャー”が、自分を追い詰めているような気がしてならない。
心臓が跳ねるような不快感
特に嫌なのが、アラームが鳴った瞬間のあの心臓の跳ね上がる感じ。どんなに深く寝ていても、急に現実に引き戻されてしまうような感覚。まるで眠りから引きずり出されて、戦場に放り込まれたような気分だ。人間らしさとか優しさとか、そういうものが一気に吹き飛ぶ音。それが毎日、決まった時間にやってくる。こんなに機械的な生活をしていて、人としての“ゆらぎ”はどこへ行ったのだろう。
「止めたくないのに止めてしまう」自責の繰り返し
そしてアラームを止めた後、ベッドに沈む。もう少し寝ていたいけど、起きなきゃ。でも止めてしまった。ギリギリまで粘って結局慌てる。そんな自分にまた自己嫌悪。毎朝同じような展開を繰り返しながら、「俺ってダメだな…」と反省する。なのに翌朝も同じことをしてしまう。成長していない自分を目の当たりにして、余計に気が滅入ってしまう。
休日ですら鳴る“義務感”の正体
何が悲しいって、休みの日ですらアラームを設定してしまうことだ。仕事がない日くらい、ゆっくり寝ればいいのにと思うけど、体が勝手に“いつも通り”を求めてしまう。そしてアラームが鳴ると、無意味な義務感に襲われる。「今日は何もない」とわかっていても、心が休まらない。結局、休日なのに平日と同じようなルーティンをなぞってしまうのだ。
体が勝手に覚えてしまった生活サイクル
司法書士の仕事は突発的な案件が多く、朝の時間が命綱だ。だからといって、毎日律儀に同じ時間に起きる必要があるのかと言われると、正直わからない。でももう体が覚えてしまっていて、アラームがなくても勝手に目が覚めてしまう。そして「ああ、今日は土曜日か…」と気づいてから、少しだけ悲しくなる。どこまでも仕事に縛られているような感覚。それが習慣という名の檻なのだ。
せっかくの休みも休まらない現実
休みの日くらい心を解放したい。でも、アラームに叩き起こされた時点で、その日はもう“自由”ではなくなってしまう。たとえベッドで二度寝しても、心は覚醒してしまっている。メールをチェックして、ついでに業務連絡が気になって…と、いつの間にか仕事モードに入ってしまう。そんな自分が嫌になる。「今日は休もう」と決めたはずなのに、どこか罪悪感すら覚えてしまうのだ。
司法書士という仕事の「決まった日常」
司法書士という仕事は、一見自由そうに見えて実は時間に支配されている。提出期限、面談スケジュール、法務局の開庁時間…。全てが決まっていて、その中で最大効率を目指すことが求められる。だから自然と“決まった時間”に起きて、“決まった動き”をする毎日が出来上がっていく。でも、それが本当に自分の望んでいた働き方なのかと、ふと立ち止まる瞬間がある。
スケジュール管理が心を蝕む
カレンダーにはびっしりと予定が詰まっている。それを崩さないために、毎朝同じ時間に起き、同じように準備し、同じように事務所に向かう。それが崩れると一日がぐちゃぐちゃになり、後悔する。だからこそ、アラームは手放せない。でも、そんな日々を続けるうちに、心のどこかで「もう疲れた」と思っている自分がいる。効率と正確さを優先するあまり、自分の感情を押し込めてしまっている気がしてならない。
書類の締切とアポイントに追われて
「締切」という言葉が嫌いだ。でもこの仕事においては、避けて通れないものでもある。登記申請も、相続書類も、全てが期限ありき。そのために、朝の時間が勝負になる。そしてまたアラームが鳴る。「間に合うか」「あの書類は今日中か」と思いながら起きる日は、もはや“始まり”ではなく“闘い”だ。心を整える暇もなく、ただ業務に巻き込まれていく感覚がある。
感情を挟む余地のない日々
誰かの人生に関わる仕事をしているのに、自分の感情はどこか置いてけぼりだ。今日も何件処理したか、どれだけ効率よく動けたか、そればかりを気にしている。朝のアラームが鳴った瞬間、感情はスイッチを切られて、ただの“司法書士モード”になる。人間らしさを失っているようで、時々ぞっとする。でも止められない。仕事がある限り、このサイクルは続くのだ。
「自由に働ける」は幻想だった
よく「自営業って自由でいいですよね」と言われる。でも、その“自由”がどれだけ不自由か、わかっている人は少ない。確かに時間の使い方は自分次第かもしれない。でも実際は、依頼者の都合、役所の開庁時間、事務員さんとの連携など、あらゆる要素に縛られている。だからこそ、決まった時間にアラームをセットして、自分を無理やり律している。それが“自由”なのかと問われると、答えに詰まってしまう。
アラームが鳴るたび、自分が消えていく感覚
アラームは、もはや“自分らしさ”を奪う合図のように感じるようになった。鳴った瞬間から、自分が誰かのために動き出すスイッチが入る。そうして毎日が始まり、終わっていく。寝る時間だけが、唯一の“自分”の時間なのかもしれない。だからこそ、アラームが鳴ることに強い抵抗を感じる。「また今日も、誰かのための一日が始まる」と。
朝が来るたびに「終わらない義務」が増えていく
不思議なことに、処理しても処理しても仕事は減らない。むしろ朝が来るたびに、義務や責任が増えているような錯覚に陥る。「今日こそはスッキリ終わらせよう」と思っても、予定外の電話やトラブルで予定はすぐ狂う。だからこそ朝が憂鬱で、アラームが恨めしくなる。もう少し寝かせてほしいという願いも虚しく、義務の波に飲まれていく。
メールチェックが最初の戦い
朝起きて最初にするのはメールチェック。寝ている間にも何件か届いている。差出人を見て、ドキッとすることもある。緊急案件、確認依頼、催促…。目覚めた瞬間から頭がフル回転になる。スマホの画面が“闘いの始まり”に見える瞬間。誰とも話していないのに、もう疲れてしまう。これが習慣だと思うと、やっぱり自分はおかしいのかもしれない。
朝イチの電話が一番怖い
時には、アラームを止めた数分後に電話が鳴ることもある。番号を見て、「ああ、あの案件か…」とため息。まだ寝ぼけている頭で対応しなきゃならない時もある。声を整えて、「おはようございます」と出るけど、内心は叫びたくなっている。「朝くらい、勘弁してくれよ」と。けれど、それもこの仕事の宿命。アラームの音は、そんな日常の扉を毎日こじ開ける。
アラームを止めた瞬間が唯一の“自由”
皮肉なことに、アラームを止めた瞬間こそが、一日の中で最も“自由”を感じる時間かもしれない。その後には仕事が待っているけれど、ほんの一瞬、「もうちょっとだけ…」と自分に甘えていられる。その刹那が、唯一の救い。でも、それすらも罪悪感と紙一重。自由と自己嫌悪のはざまで揺れる朝が、今日もまた訪れる。