泣けるほど嬉しいこと、いつから感じてないんだろう

泣けるほど嬉しいこと、いつから感じてないんだろう

嬉しさを感じなくなった日々に気づいた瞬間

ある日ふと、隣の定食屋で食べたカツ丼を見て「おいしいな」と思った。でも、それが本当に「嬉しい」と言えるような感情かと問われると、何だか違う気がした。最近、人からの感謝の言葉も、仕事の成功も、全部どこか遠くの出来事のようで、自分の中に響いてこない。昔はもっと、小さなことにも心が動いた気がする。桜が咲いたとか、お客さんに笑顔で帰られたとか、それだけでちょっと泣けそうになるくらいの気持ちがあったのに、今はその感情が鈍くなっているのを感じる。

喜びの感度が鈍くなったのは、いつからか

「忙しいから」と言い訳していたけれど、本当は違う。たぶん、心が疲れてしまっているのだと思う。毎日の業務に追われて、感情を味わう余裕がなくなっている。開業して10年以上が過ぎ、最初は喜びだった登記の成功や感謝の言葉も、いまや「当然の仕事」として処理されていく。慣れというのは、嬉しさや感動を鈍らせる。だから、どんなに順調に仕事が進んでいても、胸がいっぱいになるような嬉しさはやってこない。

昔はもっと単純に笑えていた

昔は、役所の窓口で申請書を受け取ってもらえただけで「やった」と思えた。まだ駆け出しのころ、たった1件の相談電話に小躍りしたこともある。何もかもが初めてで、できることが増えるたびに喜びがあった。けれど、今はどうだろう。慣れたルーティンの中で、淡々と処理する毎日。初心のころの自分に、「今の俺は笑えてるか?」と聞いてみたくなる。

嬉しい=仕事がうまくいく、だけじゃなかった

実は嬉しさって、仕事の成果だけで決まるものじゃなかったのかもしれない。ちょっとした会話で笑えたり、うまく話せない新人を見守ったり、そういうところにも喜びはあったはずだ。でも今は、効率や結果ばかりに目がいって、感情の機微が置き去りにされている。仕事に追われることで、心が狭くなっていたのかもしれない。

ふとした会話で気づかされる「喜びの空白」

先日、事務員が「この前、子どもが初めて逆上がりできたんですよ」と嬉しそうに話してくれた。その表情を見たとき、ああ、自分には最近こんな顔をしたことがないなと気づいた。嬉しさって、日常の小さな出来事の中にある。けれど、その小さなことを見落としてしまうと、いつの間にか「何もない」と思い込んでしまう。そんな日々が続いていた。

他人の話がまぶしく聞こえる瞬間

人の嬉しそうな話を聞くと、まぶしくて、ちょっと遠い世界のように思える。別に羨ましいわけじゃない、と思いながらも、どこかで自分との違いを感じてしまう。心が動かなくなった自分と、喜びに素直に笑える人。その差が、自分を余計に孤独にさせている気がした。

比べてもしょうがないとわかっていても

「人は人、自分は自分」なんてわかりきっているのに、どうしても比べてしまう。そして、自分の生活が空っぽに思えてしまう。それでも仕事はあるし、やらなきゃいけないことは山積みだ。でも、その中に「自分が嬉しいと思える瞬間」がないのは、ちょっとした欠落のように感じる。

司法書士という職業に喜びはあるのか

この職業には「ありがとう」と言われる機会は確かにある。だけどそれが、自分の心を震わせるかというと、最近はそうでもない。機械的にこなす手続き、効率だけを求められる毎日。正直、喜びを感じる余裕がないのが本音だ。

感謝されることはある、でも

依頼者から「本当に助かりました」と頭を下げられる。そんなとき、自分でも「役に立てたな」と思う。でも、胸が熱くなるほどの喜びは湧いてこない。昔は、そんな言葉に涙が出そうになるほどだったのに。今は、どこか義務感と惰性で動いているような気がする。喜びというより、「よかった、終わった」という安堵ばかりだ。

「ありがとう」だけでは満たされないときもある

感謝されること自体はありがたい。でも、その言葉が自分の内側に届かなくなっているのは、きっと心の器がすり減っているせいだ。自分の中に余裕がないと、人の温かさすら感じ取れなくなるのかもしれない。ありがとうが、ただの決まり文句のように聞こえてしまうことすらある。

成果を出しても、なぜか涙は出ない

目標にしていた案件が無事に終わっても、どこか達成感に欠ける。むしろ、「次は何を処理しようか」とすぐに頭が切り替わってしまう。昔なら、ちょっとひと息ついて、自分を褒める時間くらいあったのに、今はそんなことすら忘れている。いつから、自分の感情を後回しにする癖がついたのだろう。

達成感と虚しさが同居する

達成感を感じることはある。でもその直後に、なぜか空虚な気持ちがやってくる。「これで何が変わるんだろう?」と、自問してしまう。やりがいと虚しさが同時に存在するのは、意外と苦しい。自分の感情が二層に分かれているような、そんな気持ちになる。

モチベーションの源がどこかに消えてしまった感覚

昔は「これを乗り越えたら少しはラクになる」と思って頑張ってきた。でも、その「先」が来ないまま、次から次へと波のように仕事が押し寄せてくる。喜びを感じる余白が、スケジュール帳からごっそり抜け落ちている。だからか、モチベーションも上がらず、「何のためにやってるんだっけ?」と自問することが増えた。

本当に欲しいのは、何だったんだろう

司法書士という肩書き、仕事の安定、社会的信頼。そういうものを手に入れてきたはずなのに、なぜか満たされない。自分が本当に欲しかったものって、何だったのだろう。そんなことを考えるようになった。

仕事の中に「嬉しさ」を求めすぎていたかもしれない

「仕事がうまくいけば、人生も満たされる」と思っていた。でも実際は、仕事だけでは補えない空白がある。休日に一人で食べるコンビニ弁当、誰にも見せることのない報告書の山。嬉しさって、意外と他のところに転がっていたのかもしれない。にもかかわらず、自分はずっと仕事の中にばかり探していた。

頑張っても頑張っても、報われた気がしない

自分なりに頑張ってきた。でも、褒めてくれる人もいなければ、分かち合う人もいない。結果は出しても、それが誰かの心に残るわけでもない気がしている。努力が独りよがりのまま、ただ積み上がっていくだけ。それが、今の現実だ。

泣けるほどの喜びは、他者とのつながりに宿るのか

結局、誰かと気持ちを共有できたときこそ、人は嬉しさを実感できるのかもしれない。一人で味わう達成感より、誰かと喜びを分かち合う瞬間の方が、ずっと深く心に残る。そう思うと、ずっと一人で頑張り続けてきた自分が少し不憫に思えてきた。

仕事以外の場所に目を向けられない自分

気づけば、仕事以外の世界を狭めてしまっていた。趣味もない、恋人もいない、友達と呼べる人も少ない。誰かと繋がることで得られる喜びを、自ら閉ざしていたのかもしれない。寂しいけど、それが今の自分だ。

「モテたい」願望すら忘れていた

昔は少しでも「いい人に見られたい」と思っていた。でも今は、身なりに気を遣う余裕すらない。「モテたい」という気持ちは、単に恋愛したいということではなく、「誰かに認められたい、受け入れられたい」という感情だったのかもしれない。その感覚すら忘れていたことに、少しだけ悲しさを覚える。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。