なぜ実家に帰るのがこんなに気まずいのか
正月やお盆が近づくたび、実家に帰るかどうかで悩む。決して実家が嫌いなわけじゃないし、親が冷たいわけでもない。むしろ優しい。それでも帰るのが億劫になるのは、たぶん「申し訳なさ」が胸に刺さるからだ。司法書士として食っていけてはいるが、結婚もしていないし、仕事の話をしても親にはピンと来ない。うまくいってるふりをするのも疲れるし、かといって正直に話して心配させるのも後ろめたい。そんな自意識のせいで、玄関の前で立ち止まることになる。
「帰っておいで」の言葉が重荷に感じる日
うちの母は今でもときどき電話をくれる。「あんたも無理しなさんな。たまには帰ってきなよ」――その言葉が刺さる。親心なのは重々わかっているのに、それを素直に受け取れない自分が情けない。たとえば30歳くらいまでは「そのうち帰るよ」と軽く返せていた。でも今は違う。40代も半ばに差しかかり、何をどう語ってもどこか弁解のように聞こえてしまう気がしてならない。親の「気にしてないよ」という優しさすら、自分への遠回しな憐れみに思えてくる瞬間がある。
報告できるような“成果”がない
司法書士として独立はしている。でも、親に話せるような大きな仕事の話なんて、そうそうない。どれだけ細かい登記を丁寧に片付けても、そこにドラマはないし、年配の両親にとっては難解すぎてピンとこない。だからといって「今日は公正証書をつくりました」なんて言っても、話がすぐ終わってしまう。それがまた、自分をちっぽけに感じさせる。「何も言えることがない」ことが、無言のプレッシャーとなってのしかかってくるのだ。
年末年始の「帰省ラッシュ」はむしろ憂鬱ラッシュ
年末になると、世間は「帰省ムード」であふれる。SNSでは家族団らんの投稿が流れ、駅やバス停は賑わいを見せる。その雰囲気の中で自分だけが「実家に帰れない理由」を探しているような気分になる。事務所も仕事納めなのに、自分は帰らずに書類の整理。理由は「片付けがあるから」なんて言ってるけど、本音は気まずさからの逃避だ。バレバレの言い訳でも、黙って受け入れてくれる両親がまた、しんどい。
「結婚はまだか」と聞かれる地獄
親戚づきあいがある家なら、年末年始の帰省は地雷原みたいなものだ。「結婚はまだ?」「いい人いないの?」といった定番の質問。誰かが聞き出せば、あとは連鎖的に始まる小さな地獄。これまでに何度もやんわり受け流してきたけど、もうネタ切れ。愛想笑いにも限界がある。司法書士として働いていても、独身というだけで“何か足りていない”ような目で見られるのが苦しい。仕事の実績よりも、家庭を持っているかどうかが“人としての評価”に繋がるような空気は、想像以上に重い。
親に悪気はない…それがまた苦しい
父や母は、本当に善意で話を振ってくる。世間話の延長で、軽く聞いただけなのかもしれない。でも、それが一番痛い。「なんで結婚しないんだ」と怒られる方が、まだ気が楽だったりする。問い詰められるより、ふと漏らされるひと言の方が深く突き刺さる。自分が年齢を重ねるたび、親もまた老いていくのに、何ひとつ安心させられないという事実に向き合わされる。何気ない会話に「申し訳なさ」が溢れてしまうのだ。
話題をそらしても残る罪悪感
いつも同じパターンだ。「最近どう?」と聞かれて、「まあまあだよ」と返し、すぐに「テレビ見た?」とか「おせち何作ったの?」に話題を変える。でも、その“そらし方”すら見透かされている気がする。会話が終わったあと、気まずい空気が残り、それが一番つらい。親は何も言わないけど、自分の中にだけ不完全な会話の余韻が残る。もっとちゃんと話せればいいのに、もっと誠実に向き合えればいいのに、と思えば思うほど、また次の帰省が遠のく。
司法書士という仕事をしていても、胸を張れない
国家資格で独立しているといえば聞こえはいい。でも、田舎で一人事務所を回している現実は、地味で孤独だ。売上も波があるし、体も心も消耗する。そんな状態で「うまくいってるよ」とはなかなか言えない。むしろ、どこかで「もっとしっかりせねば」というプレッシャーに押しつぶされそうになっている。誇れるはずの肩書が、逆に自分を縛る鎖に変わってしまっているのかもしれない。
自営業なのに自由がないという矛盾
「自営業だから自由でしょ?」「好きなときに休めていいね」――そう言われるたび、乾いた笑いがこぼれる。実際は、誰も代わりがいないので休めないし、急ぎの登記が入れば休日でも出勤。自由なようで、実は不自由の塊。だからこそ「今は忙しくて…」と帰省の断り文句に使うこともある。だけど、心のどこかでわかっている。本当は忙しいんじゃなくて、逃げているだけだと。
「事務員さん一人だけ?」と言われる地味なダメージ
実家で「どんな規模の事務所なの?」と聞かれたとき、「事務員さん一人だけなんだ」と答えると、なぜか微妙な空気になる。家族からしたら、もっと大きくて、電話が鳴りっぱなしの忙しい事務所を想像していたのかもしれない。こっちはこっちで必死に回してるのに、なんとなく“こぢんまり”という印象を与えてしまう。これもまた、地味だけどボディブローのように効いてくる。
実家に帰れない罪悪感との向き合い方
帰らないことで感じる罪悪感は、自分の中にある“理想の息子像”とのギャップなのかもしれない。もっと稼いで、結婚して、両親を安心させるべきだった――そう思えば思うほど、帰るのが怖くなる。でも、それは誰かが求めた理想じゃなく、自分で勝手に背負い込んだ幻想かもしれない。少しずつ、そこから解放されていく必要がある。
「何もしてない」ように感じるけど、実は…
実家に誇れる話は何もないと思っていた。でも冷静に考えれば、開業して15年以上、地元でコツコツ働いてるだけでも十分立派だ。親にとっては、子が病気せず、まっとうに暮らしているだけでうれしいのかもしれない。何か大きなニュースを持ち帰る必要なんて、本当はなかったのかもしれない。
比べるのをやめる小さな練習
同級生が結婚して子どもを育てていたり、家を建てていたりすると、どうしても自分と比較してしまう。そんなときは、「自分には自分のタイミングがある」と何度でも言い聞かせるようにしている。他人と比べない訓練は、一朝一夕にはできないけど、意識していれば少しずつ楽になってくる。
それでも、たまには帰ったほうがいい理由
いろいろ面倒な気持ちはある。でもそれでも、帰ったあとの親の笑顔を見ると、「来てよかったな」と思う瞬間がある。どれだけ不完全でも、不器用でも、親にとっては“帰ってきた”という事実だけで十分なのかもしれない。
親もまた“気を使っている”という事実
こっちが「申し訳ない」と思っているのと同じくらい、親も「負担かけてないかな」と気にしている。そう考えると、自分だけが特別つらいわけじゃないんだと気づく。気を使い合って、ぎこちない時間を共有する。それでも“会う”ことに意味がある。
気まずさごと受け入れる勇気
完璧な息子じゃなくても、堂々と帰っていい。気まずさや後ろめたさもセットで持ち帰って、ただ一緒にご飯を食べるだけでいい。うまく話せなくても、沈黙があっても、それが「今の自分」なんだと開き直ることも大事だと思う。
帰省=立派な親孝行、じゃなくてもいい
「親孝行しなきゃ」と力むほど、実家は遠くなる。ただ帰って、顔を見せて、ちょっと手土産でも買っていけばそれで十分。立派な何かを持って帰る必要なんて、どこにもない。むしろ、不完全なままでも“帰ること”自体が、最大の親孝行かもしれない。