鍵を開けた瞬間、人生の終わりと向き合わされる

鍵を開けた瞬間、人生の終わりと向き合わされる

「鍵を開けた瞬間」に感じる重さ

この仕事をしていて、一番胸が詰まる瞬間。それは、孤独死の現場で鍵を開けたときです。空気の流れが変わり、鼻腔に重くのしかかる匂い、時間が止まっていたような室内。まるで空間そのものが、その人の最期を沈黙のうちに語っているようです。依頼された登記手続きはただの名義変更かもしれません。でも、鍵を開けたその一瞬で、書類の裏にある人生が、否応なく目の前に迫ってきます。

玄関の向こうにある“誰も知らない最期”

あのときのことは今でも忘れられません。大家さんに同行して部屋の鍵を開けた瞬間、冷たい空気と一緒に時間が流れ込んできたような感覚。テレビはつけっぱなしで、台所には使いかけのレトルト食品。布団の上には、仰向けのまま誰にも見つけられずに亡くなった男性。人間の最後がこんなにも静かで、誰にも気づかれないものなのかと、愕然としました。私はただの手続き屋ではないのだと、強く思い知らされた瞬間でした。

依頼書の文字と現場の現実のギャップ

依頼内容は「名義変更登記」。それだけを見れば、日常業務のひとつにすぎません。けれど現場に行けば、状況はまるで違います。靴が揃えられたままの玄関、カレンダーの中旬で止まった日付、押し入れに詰められたアルバム…。書類からは決して読み取れない、その人の暮らしの断片が、無言で語りかけてくるのです。「どうして誰も気づかなかったんだろう」。そう思わずにいられませんでした。

誰かの人生の“あとしまつ”を担う職業

司法書士として、不動産や遺産に関わる場面は数多くありますが、こういった孤独死の案件に関わるたび、「これは仕事というより、人生の後始末をしているのかもしれない」と感じます。誰もがやりたがらない、でも誰かがやらなければならない作業。遺族がいない場合、行政や管理会社からの依頼が多くなりますが、誰も泣いてくれない現場に、自分の存在意義を問われることもあります。

孤独死と向き合うたび、心が削られていく

何度経験しても、慣れることのない感覚。それが「孤独死」という現実です。心を切り離して淡々と仕事をこなせれば楽かもしれませんが、どうしても感情が入ってしまいます。自分もまた独り身であることもあり、こういう場面に出会うたびに、自分の将来をどこかで重ねてしまうのです。

臭いと静寂が一気に押し寄せてくる瞬間

部屋のドアを開けた瞬間に押し寄せる、形容しがたい臭い。真夏であればなおさらです。あの空気に触れた瞬間、思考が停止しそうになります。でも、そんな中でも手続きは進めなければならない。確認作業、資料の収集、現況写真の撮影…。静寂に包まれた室内で、ただ自分の呼吸音とカメラのシャッター音が響く。気づけば手が震えていました。

慣れることはない。慣れてはいけないとも思う

こういった現場に何度か遭遇すると、多少の耐性のようなものが生まれてきます。でも、それに“慣れる”というのは、どこか人として大切なものを失っていくようで怖いのです。毎回、何かしら感情が揺さぶられる。それでいいのだと思っています。「こんな現場に慣れっこになっちゃいけないんだ」と、あえて自分に言い聞かせています。

「またこの仕事か」と思う自分にぞっとする

あるとき、電話で「また孤独死案件です」と言われた瞬間、「ああ、またか」と無意識につぶやいた自分に驚きました。感情を守るために心を麻痺させるのは仕方のない防衛本能かもしれません。でも、その一言に、ぞっとしたのも事実。誰かの人生の終わりに「またか」なんて、言ってはいけないはずなのに。それでも、日々の業務は待ってはくれません。

事務所に戻っても、気持ちの切り替えができない

現場対応を終えて事務所に戻っても、なんだか気持ちがうまく切り替えられないことがあります。書類に向かっても、頭の片隅にあの部屋の空気が残っている。小さな湯のみ、読みかけの週刊誌、折りたたまれた洗濯物…。その人の生活の名残が、どうしても離れないんです。

報酬では割り切れない感情の後始末

孤独死案件の報酬が特別高いというわけではありません。むしろ、手間と精神的負荷を考えたら割に合わないと感じることの方が多いです。でも、それでも断れないのは、「誰かがやらなければ」という思いと、社会の中で司法書士が担っている責任の重さを感じているからなのだと思います。お金ではなく、感情の整理をどうするかのほうが、よほど難しい。

独り身の自分と重なる孤独のリアル

こんな現場を経験すると、どうしても自分のことを考えてしまいます。もし自分が同じように亡くなったら、どれくらいの時間が経って見つけてもらえるのか…。実際、誰にも迷惑をかけない死に方なんてないのかもしれません。でも、だからこそ、生きているうちに誰かとつながっておくことの大切さを、痛感します。

人が亡くなるということ、誰かが気づくということ

「亡くなったことに誰も気づかない」それが孤独死の本質的な怖さなのだと思います。手続きが大変なのではなく、“人の存在が不在になることにすら誰も気づかない”という事実に、私はいつも言葉を失います。

郵便受け、異臭、近隣からの通報

孤独死の発覚は、大抵が郵便受けに大量のチラシが詰まっていたとか、部屋から異臭がするといったところから始まります。管理会社や近所の方から連絡が来て、私たちのような専門職に声がかかる。でもそれって、逆に言えば、それまで誰も訪ねなかったということ。隣に住んでいる人の変化に気づけない社会が、どこか寂しい。

“違和感”の積み重ねが命綱になる

違和感に気づいてくれる人がいるかどうか。それが生死を分ける瞬間につながることもあります。ポストの様子、部屋の電気、洗濯物の干しっぱなし…。些細なことかもしれませんが、その積み重ねが大きな意味を持つ。誰かが「おかしいな」と思ってくれる社会であってほしい。それが、孤独死を減らす一歩だと思っています。

地域社会の希薄さをひしひしと感じる

地方にいても、人と人のつながりは薄れてきているのを感じます。昔はおせっかいと言われたご近所付き合いが、今では「余計な干渉」と捉えられることも多い。でも、そのおせっかいが命を守っていたこともあったんです。私は司法書士として、その現実を嫌というほど見てきました。そして、それは自分も他人事ではないと、日々実感しています。

司法書士の役割は、心の整理役でもある

登記や遺産相続の手続きをするだけが司法書士の仕事じゃない。こういった現場に立ち会うことで、人の人生を見届ける仕事でもあると、つくづく感じます。ときには誰かの心の整理を手伝う役目を担うこともあるのです。

財産整理以上に問われる人間力

故人に親族がいれば、疎遠だった家族との橋渡し役になることもあります。「生前にもっと連絡しておけばよかった」と涙ながらに話す家族に、私は何も言えません。ただ手続きを進めるだけではなく、その場に立ち会う覚悟、人としての受け止め方が問われる。それがこの仕事の、見えない難しさだと思います。

遺品のひとつひとつが語る人生に触れる

本棚の一冊、冷蔵庫の中のプリン、メモ帳に残された走り書き。それらすべてが、その人の人生を物語っています。法律や制度の枠では語れない、人間の営みがそこにはあるんです。私は司法書士として、その最後の舞台に立ち会う責任を、これからも背負い続けていくことになるのでしょう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。