今日もまた休めなかったという現実
「今日はちょっとだけでもゆっくりしよう」と朝のコーヒーを口にしながら思っても、結局一日が終わる頃には机の上に書類が積まれたまま、メールの返信も途中で、気づけば電気ポットの湯が冷めていた。そんな日が、何日続いただろう。休もうと思っていたのは本気だったのに、電話一本で計画は崩れるし、急ぎの登記が入れば当然後回しになるのは自分の休息だ。そもそも、休むための準備すらできていないのが現状なのだ。
誰に迷惑をかけているわけでもないのに
自分が休んだところで、直接誰かに迷惑がかかるわけじゃない。そう頭ではわかっていても、実際に休もうとすると罪悪感が湧くのが不思議だ。誰かに責められているわけでもないのに、「こんな時に休んでいいのか」「あの依頼は大丈夫だろうか」と不安がよぎる。事務員が出勤していると、自分だけが休むのも後ろめたく感じる。結局、自分の中の“正義感”や“責任感”に、自分ががんじがらめになっているのだ。
「休む=怠け」という刷り込み
気づかぬうちに染みついているのは、「休むのは怠け」「忙しいのが偉い」といった価値観だ。学生時代、元野球部だった自分は、熱があってもグラウンドに立つのが当然だったし、水を飲むのも根性がない奴扱いされた時代だった。その名残か、今でも少し体調が悪い程度じゃ、休む選択肢がそもそも出てこない。何なら「しんどいけど頑張ってますアピール」すらしてしまう。冷静に考えたら、休まないことが美徳だなんて、誰が決めたんだろう。
休んだ後の“取り戻し”が怖くて結局休めない
一日休めば、一日分の業務がそのまま後ろにズレる。それを想像するだけで、「だったら出てきて少しでも処理しておこう」となる。昔、思い切って二日間完全に休んだことがある。結果、その後の地獄のようなキャッチアップ作業に追われ、体は休まったはずなのに心は倍疲れた。休むことで“借金”ができる感覚になってしまっている。この悪循環を断ち切らない限り、いつまでたっても「心からの休息」にはたどり着けない。
事務員には休ませたいのに自分は休めない
事務員には「無理しなくていいからね」「体調悪いときは遠慮なく休んで」と声をかけている。実際、少しでも体調が悪そうなら「今日はもう帰って」と言える。でも、じゃあ自分がそれをできているかというと…まったくできていない。むしろ、事務員が休んだ日は「自分がしっかりしなきゃ」と気合いを入れてしまう。誰よりも優しくしてあげたい存在のために、自分が休めない状態をつくっている。これ、よく考えたらおかしな話だ。
優しさが空回りして首を締める
優しさって、時に自分にとっての呪いになることがある。「人に優しく」は大事だけど、「自分に厳しく」しすぎたら意味がない。事務員のフォローをすればするほど、自分の仕事は後ろ倒しになるし、帰宅も遅くなる。でも、それを嫌だとも思えないから、また翌日も同じことを繰り返す。まるで一人でバランスを取って、誰にも見えないところで綱渡りをしているような感覚。正直、もう少し誰かに助けてほしい。
「先生がいないと回らないですから」の一言が重い
以前、事務員から「先生がいないと何も回らないですから」と言われたことがある。たぶん、褒め言葉のつもりだったんだと思う。でも、自分には呪文のように響いた。「自分がいなきゃダメ」というプレッシャー、「休んだらダメなんだな」という刷り込み。それ以来、どんなに体調が悪くても、気持ちが落ちていても、休む選択肢はなくなってしまった。責任を感じるのは当然。でも、その責任感に押し潰されかけているのも、また事実なのだ。
自分が倒れたらどうするのかというジレンマ
「自分がいないと」と思って働き続けるけど、実際に倒れたらどうなるんだろう。ある日、熱中症気味でふらふらになりながら登記の相談を受けていたとき、ふとそんなことを考えた。倒れて動けなくなったら、誰が対応するのか。お客様には迷惑をかけ、事務員にも過度な負担がかかる。だったら、元気なうちに休んだ方がいいに決まってる。でも、その判断ができる人間なら、今こんなに悩んでいない。
「元気そうですね」と言われる地獄
よく言われる。「元気そうですね」「バリバリ働いてますね」と。でも、本当はそんなことない。元気に見えるだけで、内側はずっとくたびれてる。疲れが蓄積して、もはや“元気じゃないのが普通”になっている。たまに鏡を見ると、自分の顔がひどく老け込んで見える。元気に見せるのも仕事の一部。そんなふうに思い込んで笑ってきたけど、そろそろ限界かもしれない。
笑ってるけど中身は空っぽ
依頼人の前では、できる限り穏やかに、安心感を与えられるように接する。多少のミスやトラブルも、笑って対応する。でも、ふと一人になった瞬間、力が抜けたように崩れ落ちそうになる。笑ってる時間の分だけ、内側が空洞になっていく感覚。誰かと食事をしても、会話がうわの空になることがある。楽しむことにも、エネルギーがいると気づいてしまった。
元野球部の体力神話にしがみついてるだけ
若い頃は、ちょっとの無理は気合いで乗り切れた。「自分は体力ある方だから」と思っていたし、実際それで何とかなっていた。でも、40を過ぎた今は違う。寝ても疲れが取れないし、無理をすればするほど、翌日のパフォーマンスが下がる。それでもまだ「自分は元野球部だから」と言い聞かせている。情けない話だ。過去の自分の幻影に、今の自分をすり合わせているだけ。
休む=負けという部活の呪縛
部活では、どんなに辛くても「休むな」が美徳だった。水を飲むのも怒られるような時代に育った人間は、今もどこかで「休む=負け」と思っている節がある。だから、誰よりも長く働いていると安心するし、帰宅が一番遅いとホッとする。そんな自分が滑稽に思えることもあるけど、染みついた価値観はそう簡単に変えられない。結局のところ、「誰かに褒められたい」気持ちを引きずっているのかもしれない。
独身で良かったと思いたい夜
仕事が遅くなっても、誰にも気を遣わなくていい。食事も適当でいいし、休日の予定も自由だ。そうやって「独身で良かった」と言い聞かせる。でも、本音を言えば、誰かに「今日は休んでいいよ」と言ってほしいし、支えてほしいと思う日もある。独りで気楽、だけど独りで背負っているものも多い。それに気づくと、胸の奥が少しだけ痛くなる。
誰にも迷惑をかけない分誰にも助けてもらえない
家庭がある人は、家族の支えがある。でも自分にはそれがない。自由ではあるけれど、助けを求める先も限られている。誰かに頼ることができないまま、「大丈夫」と言い続けてしまう。けれど、その「大丈夫」は本当に大丈夫ではない。時折、深夜の静けさの中で、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえるとき、ふと孤独を感じるのだ。
「休んだらどうなるか」の不安が支配する
独り身だからこそ、「もし自分が動けなくなったら」という不安は常にある。家族に頼ることもできない。自分が全てを回しているという自負と、それゆえのプレッシャー。たとえ一日だけでも、完全にスイッチを切ることができたら、どれほど心が軽くなるだろうと思う。でも、いつもその“もしも”に足をすくわれて、動き続けてしまう。
本当はもっと人に頼りたい
誰かに「もう無理しなくていいよ」と言ってもらいたい。「今日くらいは休んで」と背中を押してもらいたい。でも、その言葉を待っているだけじゃダメなのもわかっている。自分が自分を許さなければ、誰の言葉も届かない。もう少し、自分に甘くなってもいいのかもしれない。完璧じゃなくてもいい。そう思える日が、いつか来るだろうか。