また会いたいねが社交辞令に聞こえる
「また会いたいね」──この一言に、以前は少しだけ心が温まることもあった。でも今は、聞くたびに少し寂しくなる。司法書士という仕事をしていると、さまざまな人と出会い、そして別れる。感謝されることもあれば、終わればぱったり音沙汰なしということも多い。「また」は、案外来ない。そんな毎日の中で、「また会いたいね」が、本気なのか社交辞令なのか、だんだん分からなくなってくる。
本当にまた会いたいのか分からない日々
「また飲みに行きましょう」「また近いうちに」──その“また”が本気で実現したことが、果たしてどれくらいあっただろうか。お互いに忙しいから、という理由で自然消滅する関係ばかり。中には心からまた会いたいと思ってくれている人もいるのかもしれない。でも、それを確認する手段がない。こっちが勝手に期待して、勝手にがっかりする。それが怖いから、最初から期待しないようにしてしまう。
期待しないほうが楽だと分かっていても
どうせ口だけだろう、と受け流してしまえば、余計な心の動きは避けられる。けれど、どこかでまだ信じたい気持ちが残ってしまうのが人間の弱さだと思う。期待しないことで守れるのは自分の気持ちだけれど、そのぶん、相手に心を開けなくなってしまう。こうしてまた、誰かと深い関係になるチャンスを逃してしまう。
「また今度」は大抵、もう二度と来ない
学生時代の友人が、「また今度連絡するね」と言ったまま、十年以上会っていない。こちらから連絡すればいいのだろうが、「またね」と言ったのはあっちだ。なんだかこちらから声をかけるのが、情けないような、虚しいような気がしてしまう。こうして自然と距離は開いていき、つながりは途切れていく。
仕事上の人間関係にも似た虚しさ
司法書士という仕事は、基本的には単発の関係だ。登記が終わればそれで一区切り。丁寧に対応すれば感謝されることもあるが、その先が続くことはほとんどない。あれだけ密にやり取りしたのに、最後は事務的な「ありがとうございました」で終わる。そんな繰り返しに、どこかむなしさを覚える。
顔を合わせていても心はすれ違う
顔を合わせて笑い合っていても、本音ではお互い違うことを考えているのかもしれない。相手はこちらのことを「仕事上の人」と割り切っていて、こっちが少しでも心を開こうとすると、すっと距離を取られるような気がする。プロとしての距離感なのだろうが、それが重く感じるときがある。
書類と判子にだけ囲まれて生きている
気がつけば、毎日書類と向き合い、判子を押しているだけのような日々。人と会っても、目の前の書類を挟んでしか関わることができない。書類に囲まれていても、それが安心感を与えてくれるわけではない。むしろ、自分の世界をどんどん狭くしているような気さえする。
忙しさに紛れて気づかない孤独
毎日何件も案件を抱えていると、朝から晩まで予定が詰まる。それはありがたいことかもしれないが、その分、誰かとゆっくり話す時間はどんどん失われていく。「忙しいから仕方ない」と思っていたが、ふとした瞬間に、妙に寂しくなる。誰とも心の通った会話をしていない日が、続いていることに気づく。
誰かと食べる昼飯が、遠い昔に感じる
昔は仲間と昼休みにラーメン屋に入って、他愛もない話をしながら食べた。今は、コンビニのおにぎりを事務所でかきこむ日々。事務員も気を遣ってくれるが、ふたりきりの職場では、会話にも限界がある。たわいもない雑談が、こんなにも貴重だったと、今になって分かる。
電話のベルが鳴っても嬉しくない
電話が鳴っても、内容は大体が急ぎの確認か、修正の依頼か、クレームの予兆。誰かと楽しく話すためのものではない。誰かから連絡が来ることに期待しないようになって久しい。たまにLINEの通知音が鳴っても、業者か不動産会社からのメッセージ。そんな日々が当たり前になってしまった。
それでも誰かと繋がっていたいと願う
こんなふうに愚痴をこぼしながらも、やっぱりどこかで誰かと繋がっていたいと思っている。「また会いたいね」が社交辞令でも、それを本気にできるような関係があったらいいのにと思う。そんな気持ちを持っているうちは、まだ自分は大丈夫なのかもしれない。