事務所に吹かない風と変わらない景色
この事務所で仕事を始めてから、季節の変化に鈍くなったように思う。窓を開けることもない。朝から晩までパソコンと書類に向かっていると、気温の上下や風の匂いすら、ただの背景になっていく。外で働く人が「今日は暑かったですね」と言っていても、こちらはエアコンの効いた部屋に一日中いた。自然と切り離された場所で、季節だけが静かに通り過ぎていく。そんな毎日に唯一変化をもたらすのが、壁にかかったカレンダーだ。
季節感のない仕事場で感じる違和感
事務所のカレンダーは市から配られたもので、季節の花や行事の写真が載っている。それを見るたびに、「ああ、今は梅雨か」「もう紅葉の時期か」と知る。けれどそれは、実感とはかけ離れたただの情報でしかない。近所の公園の桜が満開でも、それを見に行く余裕はない。時間に追われ、書類に囲まれた仕事の中で、季節はただカレンダーに印刷された色の変化として存在している。何かがずれている気がする。でも、ずっとそれに慣れてしまっていた。
いつのまにか春が終わっていた
去年の春、友人から「花見に行った」とLINEが届いた。写真には満開の桜とビールを片手に笑う顔。ふと事務所のカレンダーを見ると、すでに4月も半ばを過ぎていた。「そういえば、もう春なんだな」とぼんやり思う。桜の名所なんて、この町にもいくつかある。でも、自分の春は、登記申請と期日の確認で埋め尽くされていて、桜の花が咲いていた記憶すらない。気づいたら春が来て、気づいたら終わっていた。それがここ数年のパターンだ。
桜を見に行く時間なんてなかった
「少し早く帰って花見でもしよう」と思ったこともある。でも結局、依頼人との打ち合わせが長引いたり、補正の連絡が遅れてきたりして、夜にはもうそんな気力も残っていない。コンビニで晩ご飯を買って帰り、家で一人スマホを眺めるだけ。気づけば季節は過ぎ去り、カレンダーだけが次の月に変わっている。毎年、桜を見逃すたびに、何か大切なものを落としている気がしてならない。でも、それでも「仕事だから」と納得させている自分がいる。
カレンダーだけが季節の存在証明
季節のイベントに疎くなったのは、やっぱりこの仕事のせいかもしれない。繁忙期は年末調整の時期や相続の集中する年始、それから固定資産税がらみで春先も意外と忙しい。気がつくと、月が変わるたびに新しい予定が書き込まれ、それに追われるようにして毎日が進んでいく。季節を感じるのではなく、カレンダーに予定を書き込むことで「ああ、秋だな」と思う。なんとも情けない話だが、今の自分にはそれが現実だ。
月初の予定表更新で気づく夏の足音
毎月月初に、事務員さんと予定を確認してカレンダーに書き込む作業がある。「7月はお盆前が混みそうですね」「8月は少し休み取れそうですか?」そんな会話をしながら、ふと外を見ると日差しが強くなっていたり、蝉の声が遠くから聞こえたりする。けれど、それも窓越しに感じるだけで、肌に感じる季節の変化ではない。カレンダーの予定表の密度で、夏の忙しさを想像する。それが、僕の「夏の気配」の正体だ。
気づけば冷房も暖房も変わっている
夏が来て、気づいたらエアコンの設定が「冷房」に変わっている。そして秋が来て、「そろそろ暖房入れますかね」と事務員さんが言う。それで「ああ、もうそんな時期か」と知る。こんなふうに、エアコンの温度設定やカレンダーの数字でしか季節を感じられなくなった自分に、ふと寂しさを覚えることがある。元野球部で、外で身体を動かしていた若い頃には考えられなかった感覚だ。自然の中で過ごす時間は、今や贅沢になってしまった。
変わらない毎日の中で思うこと
司法書士という仕事は、表面上は変化の少ない日常の繰り返しに見えるけれど、その中に人の人生の節目が詰まっている。登記一つにも、誰かの決断や物語がある。それでも、日々の業務に追われる中で、自分自身の感情や季節の感覚が薄れていく瞬間がある。そういうとき、ふと「これでいいのか?」と自問してしまう。
忙しいだけで進んでない気がする
毎日たくさんの案件を処理して、書類の山を前に黙々とこなしていく。けれど、ふとした瞬間に「何かを積み上げている実感」がなくなる。忙しいだけで、成長していないんじゃないか。独立してから十数年が経つが、今の自分はあの頃思い描いていた姿とは違う気がする。時間は流れているのに、僕だけが同じ場所で足踏みしているような。そんな焦りが、季節と一緒にどこかへ流れていってしまう。
成長しているのか取り残されているのか
若い司法書士たちがSNSで情報発信したり、セミナー講師をしたりしているのを見ると、正直焦る。「自分は何をやっているんだろう」と思うこともある。でも、現実は目の前の仕事をこなすことで精一杯。本当は何か新しい挑戦をしたい気持ちもあるけれど、今さら踏み出す勇気もエネルギーも足りない。取り残されたような感覚だけが残る。
それでも回る日常と仕事
それでも、日々は回っていく。誰かの不動産の名義を変え、誰かの相続を見届ける。人の人生の転換点に関われる仕事は、地味だけど尊いと信じたい。日々の忙しさの中にも、感謝の言葉や笑顔が混じっている。それがあるから、続けられているのかもしれない。カレンダーが季節を教えてくれるように、依頼人のひと言が「今ここにいる意味」を教えてくれることもある。
事務員のひと言に救われることもある
「先生、今日めちゃくちゃ暑いですね」――何気ないその一言で、ようやく季節の存在を思い出すことがある。事務所で一緒に働く人の存在が、季節の風穴のように思える瞬間もある。孤独な仕事だと思っていたけど、こうして声をかけてもらえるだけで、救われる自分がいる。季節を感じるのは、風や花だけじゃない。人とのやり取りもまた、季節のひとつなのだと気づく。
同じように感じている人へ
司法書士として、あるいは他の忙しい仕事に就いている人の中には、きっと同じように感じている人がいると思う。季節を忘れ、感情を押し殺し、ただ黙々と働いている人たちへ、言いたい。「それでもいい」と。無理に季節を取り戻そうとしなくても、心のどこかで覚えていれば、それで十分だ。
司法書士だって迷うししんどい
偉そうにしているように見えても、みんな悩んでいる。仕事ができる人も、SNSで輝いて見える人も、きっとどこかでしんどさを抱えている。そう思うことで、少しだけ楽になれる気がする。自分だけが置いていかれているんじゃない。みんなそれぞれの「季節」を抱えているだけだ。
頑張っている人ほど季節を忘れてしまう
真面目に働いている人ほど、季節を見失いがちだ。僕も、あなたも、目の前のことに必死で、春の風や秋の空気を感じる暇なんてない。でもそれは、ちゃんと頑張っている証でもある。季節が過ぎることに罪悪感を覚える必要なんてない。カレンダーが教えてくれる季節でも、それで十分だと思う。
それでもやっぱり誰かの役に立っていたい
たとえ自分の時間が削られても、誰かのためになっていると信じられるなら、それは無駄じゃない。季節を忘れるほどに仕事をして、それでも「ありがとう」と言われたら、それが答えだと思える。カレンダーだけが教えてくれる季節。でもその中で、確かに自分は人の人生に関わっている。それだけで、十分だと自分に言い聞かせている。