朝の来客と押印された契約書
朝の事務所に、スーツ姿の中年男性が現れた。手には分厚い封筒を持っている。机の上に置かれた書類には、くっきりと朱の印影が残されていた。
「この契約書、うちの社長が署名捺印したと聞いているのですが、念のため確認をお願いしたくて」と男は言った。どこか落ち着きのない態度が引っかかる。
一見、何の変哲もない代表者印。しかし、司法書士としての嗅覚が、妙な違和感を訴えていた。
事務所に届いた奇妙な依頼
依頼人の名刺には「株式会社アカツキ 取締役営業部長」とある。だが、登記簿上の代表者の名前と一致しない。さらに「契約書の日付が登記変更より前」なのも気になる。
「あの、これって代表者変更の登記が終わってない段階の契約ですよね?」と私が指摘すると、男の表情が一瞬こわばった。やれやれ、、、この匂いは間違いなく“ある”。
サトウさんが、黙って席を立ち、端末に向かって検索を始めていた。
代表者印の違和感
朱肉が濃すぎる――それが、私が最初に感じた違和感の正体だった。通常使われるはずの三文判と比べて、あまりにも鮮明な押印。
「シンドウさん、これたぶん、スキャン画像を使って偽造してる可能性あります。拡大画像にトーンがありません」
画面に映し出された画像のドットパターンがそれを裏付けていた。印影が証明するはずのものは、嘘を隠すための道具になっていた。
消えた社長と謎の取引先
アカツキ社の登記を確認したが、代表者変更の申請はされていなかった。つまり、今提出された契約書の押印者は「元社長」である可能性が高い。
しかし、その元社長が所在不明で連絡も取れないという。しかも、関係するはずの取引先も実体がつかめない。
この状況、、、まるでサザエさんの「ノリスケさんが印鑑を押してないのに書類が進んでしまった」回のようだ。とんだ家庭内ミステリーの商業版だ。
登記簿から読み取れる不自然な履歴
さらに調査を進めると、過去にもアカツキ社は複数の代表者が短期間で変更されていたことが分かる。履歴の中には、同一人物が別名義で登場している可能性すらあった。
「これ、いわゆる“ペーパーカンパニーのリレー方式”ですね」とサトウさんは淡々と指摘する。
まるで怪盗キッドのように姿形を変えて連続登場する代表者たち。その影に隠された黒幕の存在が匂い始めていた。
サトウさんの冷静な分析
「おそらく、印鑑証明書を不正に取得して代表者印を偽造し、契約を取り交わして出資金を引き出そうとしていた」と彼女は言う。
「そのために、登記の申請を“していないように見せかける”ことで、書類上だけ前任者が有効に見えるタイミングを狙った」と。
私がモタつく間に、すでに解決の糸口が見えていたようだ。まいったな。ほんとこの人は、、、
古い印鑑証明書の罠
調査を進めると、添付された印鑑証明書の日付は3か月前のものだった。法的には有効でも、実務上はリスクが高い。
「この間に何が起きたのか、調べる必要がありますね」と私は気合を入れ直す。久々に元野球部の集中力を思い出す。
思えばあの頃も、9回裏ツーアウトからが勝負だった。
印影と日付のズレ
契約書の日付と印鑑証明書の発行日が一致しない。それどころか、契約書に記された取引自体が、登記上の事業目的に該当しない。
つまり、この契約書は代表者が存在していても、効力を持たない可能性が高い。
「偽造だけじゃなく、無効も狙ってる。二重のトラップかも」とサトウさんが言った。
紙の端に残された朱のしみ
証拠書類を一通ずつ確認していくと、契約書のコピーにだけ、不自然な朱の染みが残されていた。
「これ、たぶん、スキャンして印影を乗せたあと、別の紙に押印して重ねた形跡ですね」
もはや完全にトリックの域だ。まるでルパン三世が仕掛けるイリュージョンのように。
関係者の証言とその矛盾
社の経理担当だった女性が口を開いた。「実は、あの契約書、社長は見てなかったと思います。あの日、体調不良で休んでましたから」
この証言が決定打となった。つまり、押印は誰か別の人物が行っていた可能性がある。
そしてそれは、おそらく目の前の男、、、営業部長だった。
元取締役の口を開かせる
喫茶店で面談した元取締役は、静かに語り始めた。「あの男は昔からグレーなことばかりやってた。今回も、代表者の不在を利用して勝手に印鑑を持ち出したんだろう」
確証は得られた。あとは、それを裏付ける証拠だけだ。
やれやれ、、、司法書士ってのは地味に骨が折れる。
深夜の公証役場での対決
公証人役場に確認を取り、押印証明の偽造を証明する準備を整えた。相手方に連絡し、正式な対抗文書を送付する。
「代表者の同意のない契約書は無効です。ご理解いただけますね」と私。
相手はしばらく沈黙したあと、「……撤回します」と静かに言った。
代理人の資格とその根拠
代理権の有無が争点となることも予想されたが、結局そこまで持ち込まれることはなかった。どうやら“騙されかけたふり”で逃げたかったらしい。
まるで悪役が出てくる前に退場するアニメの脇役のように。
とはいえ、こちらとしては「未然に防げた」ことが何よりの成果だった。
押されたはずの印影の謎
契約書に残された印影は、今も変わらず鮮明だ。しかしそれは、真実を証明するものではなかった。
証明すべきは、そこにいた「人間の意思」なのだ。印影はその“痕跡”でしかない。
朱肉の赤は、いつも真実を語ってくれるとは限らない。
真相の露見と静かな幕引き
最終的に、依頼人の会社は代表者不在を理由に契約の撤回を正式に通知した。詐欺未遂の可能性もあるが、刑事告訴は見送られた。
何もかもが静かに、しかし確かに終わったのだった。
やっぱり、印ってやつは重いんだ。人の名前より、人の心を押すんだな。
最後に明かされた本当の代表者
一連の調査で分かったのは、前任の社長はすでに海外移住していたこと。そして、その直前に代表者印の再登録をしていた。
「まるで用意されてたみたいですね」とサトウさんが言った。
私はただ、朱肉のにおいをかぎながら、そっとペンを置いた。
サトウさんのため息と僕の反省
「また無理して腰痛めないでくださいよ、シンドウさん」
「ああ、、、ほんと、やれやれ、、、」
それでも、今日は少しだけ、誇らしい気分だった。