登記簿に残された仮の名義
その日、いつものように事務所に着くと、サトウさんはすでに仕事を始めていた。朝から仏頂面でパソコンに向かっている彼女の姿は、もはや「日常の風景」の一部だ。だが、机の上に置かれた申請書の写しを見て、私は眉をひそめた。
「シンドウさん、この仮登記、なんか変ですよ」と、いつもの塩対応で彼女は言う。登記簿の所有者欄には、見覚えのない名前が仮登記として残っていた。しかも、申請人が誰なのか、すでに所在が不明になっていた。
朝一番の登記相談に違和感が走る
「一応、不動産の登記なんですけど……」と現れたのは、やけに挙動不審な中年男性だった。彼はすでに何かを隠しているような雰囲気をまとっていたが、相談内容は仮登記の抹消。しかも、それが「他人の名義」だった。
「それ、仮登記ですから」と言うと、男は「そうです、だから消したいんです」と繰り返した。その仮登記の名義人は、男の元恋人だったという。なんだか少女漫画の後日談みたいな話になってきた。
見慣れぬ名前にサトウさんが動く
「この名義人、引越しの届け出もしてないですね。住民票も辿れません」と、サトウさんが冷静に言う。その声は、まるでルパン三世の峰不二子のようにクールだ。私は黙って申請書の控えに目を落とした。
彼女はすでにオンラインで地図を開き、仮登記された物件の所有履歴を追い始めていた。こうなると彼女は止まらない。まるでコナンくんにスイッチが入ったようだ。私は椅子に座ったまま、ただ「やれやれ、、、」とつぶやくしかなかった。
消えた依頼人と置き手紙
翌日、件の男性がふらっと事務所に来たかと思えば、トイレに行くと言って姿を消した。サトウさんが追いかけたが、影も形もなかった。代わりに、彼の座っていた椅子の下から、封筒が見つかった。
中には短い手紙と、当時の婚約指輪のレシートが入っていた。「これで全部忘れてくれ。登記だけは消してくれ」──そんな文面だった。なるほど、物件に彼女の名義を残したまま姿を消した男の懺悔か。
仮登記の正体は失踪届よりも早かった
名義人の女性は、すでに数年前から住民登録がない。つまり、失踪届よりも先に仮登記がなされていた可能性がある。まるで先回りされた証拠隠滅のようだ。私は当時の申請書の控えを取り出し、筆跡を見比べた。
どう見ても、二つの署名は別人の手によるものだ。私は思わずため息をつき、思い出す。サザエさんの波平がマスオに説教した後、なぜか自分が謝っているあの不条理さと似ていた。
借名か真実か 登記簿の矛盾
借名登記──それが違法であることは当然だが、恋人同士が善意で行ったとなれば事情は複雑だ。サトウさんがつぶやく。「これ、彼女が了承してたとしても、あとでトラブルになったら完全にアウトですね」。
その通りだ。しかも、書類上の不備も見つかりそうだった。まるで何かを意図的に隠していたように、必要な印鑑証明書がコピーでしか添付されていなかったのだ。
マンション一室の謎
現地に足を運んでみると、管理人が渋い顔をして言った。「その部屋、何年も誰も住んでませんよ。けど、ときどき男の人が一人で来てたなぁ」。やはりあの男が鍵を持ち、定期的に様子を見に来ていたのか。
部屋のポストには手紙もチラシも入っておらず、管理人によって毎日掃除されているようだった。徹底した「存在の抹消」。そこにだけ、時間が止まっているようだった。
鍵の受け渡しに隠された嘘
不動産会社にも確認を取ると、なんと仮登記の名義人が実際に内見に来たという記録が残っていた。だが、その日付は彼女が「失踪」したと言われる時期より後。つまり、彼女はしばらく姿を消していただけなのか?
「失踪ではなく、退場だったのかもしれませんね」とサトウさん。彼女は仮登記で名前だけを残し、すべてを置いていった。舞台から降りるように。まるで、怪盗キッドのように煙玉一つで。
管理会社の証言と住民の記憶
隣人に話を聞くと、「昔、カップルが住んでたけど、女の人だけいなくなって、その後は男の人が一人で……」という証言が得られた。それも二年以上前の話。徐々に、点と点が繋がり始めた。
しかし、それ以上の情報は出てこなかった。まるで、誰かが記憶ごと消し去ろうとしているようだった。残るのは仮登記だけ。名前のないラブレターのような存在だった。
過去の登記と現在の空白
私は職権で過去の登記を精査した。すると、かつて同じ名前が別の物件の仮登記にも現れていたことが分かった。偶然とは思えない。彼女は、誰かに名義を貸すことを繰り返していたのか。
あるいは、それが彼女の「仕事」だったのか。もはや推理の領域から、真相へと近づきつつある手応えがあった。
十年前の相続と今回の名義人の関係
十年前の相続登記で、彼女の名前が共有者の一人として記録されていた。そこには、今回登場した男の兄の名前もあった。つまり、彼女はかつて家族ぐるみで何かしらの関係があった人物だったのだ。
もしかすると彼女は、ずっと誰かのために名義だけを生きていたのかもしれない。名前は残れど、姿は消える──仮登記が語る「君の行方」は、そうした人生の断片だったのだ。
あのときの決済書類に記された違和感
最後に、かつて私が担当した決済の書類に、彼女の署名があった。だが、どう見ても筆跡が違う。それは、誰かが彼女の名前を借り、人生を操作していた証かもしれなかった。
そう考えると、あの男の手紙の意味も変わってくる。自分のためではなく、彼女の人生を守るための仮面だったのかもしれない。
仮登記のまま終わった恋
登記の申請は結局取り下げとなり、仮登記はそのまま残った。私はそれを報告する電話をかけると、相手は静かに「ありがとうございます」とだけ言った。恋が終わるとき、人はそれを法的に処理できない。
仮登記は仮のまま、恋は記録にすら残らない。それでも、司法書士として私にできるのは、その「仮」を見届けることだった。
司法書士が見た最後の真実
すべてが片付いた午後、私はサトウさんに言った。「こんな話、まるで小説だな」。彼女はコーヒーを飲みながら「フィクションよりタチが悪いですよ」と答えた。全くその通りだ。
それでも私は、この仕事が嫌いじゃない。仮の名前、仮の人生、仮の想い。そのすべてが、登記簿の中に確かに存在している。それを読み取るのが、我々司法書士の仕事なのだ。
やれやれ 最後に僕が活躍するとは
事件の全容を調査報告書にまとめ、法務局に提出したところで、一息ついた。ふとサトウさんが言った。「今回に限っては、シンドウさんが役に立ちましたね」。私は鼻をすすりながら、ポケットティッシュでメガネを拭く。
「やれやれ、、、」と思わず口に出すと、サトウさんは笑わずに書類を差し出した。「次の相談、来てますよ」。人生の仮登記は、いつだって次の本登記に向けて更新されるのだ。