共感してくれる誰かがいると信じて今日も書く

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一人きりの事務所でこぼれる本音

朝のうちはそれなりにやる気もあるのに、午後になると不思議と沈んでくる。電話も来客も落ち着いた時間帯。ふと気づけば、部屋の静けさに押しつぶされそうになっている自分がいる。以前はそれなりに忙しさがまぎらわせてくれていたのに、最近は妙に“静けさ”が重たく感じるようになった。誰かと雑談できたら違うのだろうが、事務所には事務員さん一人。もちろん気軽に愚痴を言える相手ではない。

声をかける相手もいない午後三時

午後三時、世間ではコーヒー片手に小休憩という時間帯だが、こっちは誰に「ちょっと休憩しませんか」と声をかけるわけでもなく、ただ時計の針が進むのを見つめている。テレビの音もなければ、事務所にラジオを流すような余裕もない。そもそも、何か音が鳴っていても心に入ってこない。人と関わることが前提の仕事なのに、ふとした瞬間に、こんなにも一人なのかと気づかされるのがこの時間帯だ。

窓の外に人の気配だけが流れていく

外では子どもが帰宅し、近所のおばあちゃんがスーパーの袋を提げて歩いている。車が通り過ぎていくたびに、こちらとは違う時間が流れているような気がしてくる。なんというか、自分の存在が“停滞”しているように思えてくるのだ。走り続けているつもりでも、実は何か大きな流れから取り残されているのではないか。窓越しに見る日常の風景が、そんな不安を静かに炙り出してくる。

電話が鳴ってほしくないと思う日もある

矛盾しているが、電話が鳴ると「うわ、めんどくさいな」と思ってしまうことがある。もちろん仕事なのだから、電話対応は大切だ。だけど、何件も補正やら問い合わせやらに追われていると、次の一本が「トドメ」になることがあるのだ。そして、鳴らないとそれはそれで不安になる。「今日は大丈夫だったのかな」と。でも本音を言えば、たまには完全無音の一日がほしい、誰にも話しかけられない時間が欲しい、そう思ってしまう。

事務員さんには言えない愚痴の在処

長年付き合ってくれている事務員さんがいる。正直、とても助かっているし、いなければ業務は回らない。だけど、だからこそ、弱音や愚痴は見せづらい。相手にも気を使わせてしまうし、何よりこちらが「頼りない」と思われたくない。だから、つい強がってしまう。でも本当は誰かに言いたいのだ。「しんどいです」とか「やってられないですね」とか。そういう本音を出せる場所がないまま、また一日が終わっていく。

頼れるけど、頼りすぎてもいけないという矛盾

事務員さんは本当に頼れる存在だ。でも、頼りすぎてしまうと、相手に負担がかかる。だからこそ、仕事を振るときにも慎重になる。無理をさせて辞められたらこちらが終わる。そんなプレッシャーもあるから、何でも自分で抱え込むようになる。結果、どんどん一人で疲弊していくのだ。頼ることと甘えることの境界線が難しい。その感覚は、ずっと独身でやってきた自分にはなおさら分かりづらい。

結局、相談できる相手はいないという結論

元野球部の仲間たちは、今では家庭を持ち、土日にキャッチボールどころかLINEの返信すら遅くなった。相談できるような親友もいないし、同業者とは仕事の愚痴を言い合うような関係でもない。だから、どうしてもこうしてブログに書くしかないのだ。誰かに話すことができないこの思いを、せめて文字にしておく。そんなふうにして、自分を保っているような気がする。

忙しさで誤魔化しているだけなのかもしれない

「忙しいですね」「大変ですね」と言われると、妙に安心する自分がいる。でも、それは“忙しさ”を盾にしているだけじゃないか、とふと思うことがある。本当は、仕事が好きでたまらないわけでもないし、使命感で燃えているわけでもない。ただ、何かしていないと自分の不安と向き合ってしまうのが怖い。だから今日も仕事に没頭しているふりをしているのかもしれない。

タスクは山積み、でも心はからっぽ

やるべき仕事は山ほどある。登記の準備、申請書の作成、依頼者とのやり取り、すべて期限付き。なのに、やり終えた後の達成感はほとんどない。ただ、「終わった」「次行こう」という感覚だけがある。心に残るものがないのだ。仕事の意味や、誰かの役に立てた実感よりも、「遅れないように処理する」ことだけが中心になっている。これでいいのかと、時折問いかける自分がいる。

「こなす」だけの日々が不安を加速させる

今日も、昨日と同じように仕事をこなす。そして明日も同じことを繰り返す。それが「安定」なのかもしれないけれど、内心では「何も変わらないこと」に怯えている。自分だけが取り残されていくような感覚。周囲は家族を持ち、子どもの話をして、休みには旅行に出かけている。自分はといえば、事務所と自宅を往復するだけの毎日。誰かと深く関わることもなく、ただ日々が過ぎていくだけ。

野球部の頃の根性は、もう役に立たない

若い頃は、根性でなんとかなった。真夏のグラウンドで走り込んだ日々が、社会人になってからも自信になっていた。でも今、その根性が通用しない現実を痛感している。体も心も無理がきかない。何より、頑張っても「報われる」とは限らない世界で、どうモチベーションを保てばいいのか分からない。時代も変わった。踏ん張れば結果が出る、そんな単純な話じゃない。

それでもこの仕事をやめない理由

辞めようと思ったことは何度もある。でも、そのたびに何か小さな出来事が、自分を引き戻してくれた。たとえば依頼者からの感謝の言葉だったり、書類にハンコを押す瞬間の達成感だったり。目立つことではないけれど、「自分がやる意味」がそこにあるような気がして、また頑張ろうと思える。小さな灯火のような出来事が、地味だけど確かな支えになっている。

感謝の言葉に救われた日が確かにあった

ある日、相続登記を終えた後、依頼者のおばあちゃんが涙ぐみながら「本当に助かりました」と言ってくれた。その一言が胸に染みた。報酬額では測れない価値が、そこにはあった。それを思い出すたび、「もう少し頑張ろう」と思える。お金じゃない、効率でもない、誰かの人生の一部に関われること。その実感が、この仕事の唯一のやりがいかもしれない。

「あの先生でよかった」と言われた一言

何百件とある司法書士事務所の中で、自分を選んでくれて、「この先生でよかった」と言ってもらえる。それは奇跡みたいな話だ。実際、相見積もりで他に流れる案件も多い中、信頼だけで任せてくれる人がいるというのは、本当にありがたい。見た目も地味で、モテるわけでもない自分に、そんなふうに言ってくれる人がいたという事実が、何よりの励みになる。

たった一人にでも必要とされたい

大勢に好かれたいとは思っていない。でも、誰か一人にでも「あなたがいてくれてよかった」と思ってもらえるなら、この仕事には意味があると思う。事務所の片隅で、一人パソコンに向かう日々にも、そういう一言が差し込むだけで、救われる。だから今日もブログを書く。この文章が、どこかの誰かに届いて、「あ、自分だけじゃないんだ」と思ってもらえたら、それだけでいい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。