自分が何のために頑張ってるのかわからなくなる
朝から晩まで働いて、月末には報酬が振り込まれ、登記も処理され、書類も片付く。でも、ふと気づくと、心の中にぽっかりと穴が空いているような感覚に襲われることがある。「何のためにやってるんだっけ?」と、自問自答しても明確な答えが見つからない。ただ日々の義務感に押されるように仕事を続けているだけ。そんな感覚が、特に年度末や仕事が立て込む時期になると強くなる。今回は、そんな「頑張る理由を見失ったとき」の自分自身の経験を綴ってみたい。
朝目覚めたときに感じる虚しさと疲労感
毎朝6時にスマホのアラームが鳴る。冬なんかは布団から出るのも一苦労で、天井を見ながら「このままもう少し寝ていたいな」と思ってしまう。前の日に寝たのも遅くて、精神的にも肉体的にも疲れが残っているのが分かる。しかも、目覚ましに起こされて最初に感じるのが「今日は何件あったっけ…」という義務的な計算。楽しい予定ではなく、こなすべき作業の確認。それが何日も続くと、だんだんと心がすり減っていくのを感じる。
静かな部屋に鳴るアラームの意味
一人暮らしの静かな部屋に、ただ機械的にアラームが鳴る。誰かに「おはよう」と声をかけられるわけでもない。目覚めて、顔を洗い、パンを焼いて、スーツに着替える。その一連の流れが、自動運転のようになっていて、自分の意思が介在していない気さえする。元野球部の頃は、朝練がつらくても仲間と会えるのが楽しみだった。今は…誰かに会うことさえ、少し億劫に感じてしまう。
体は動くけど心がついてこない日もある
ルーチン化された朝の行動に慣れすぎて、考える余地がない。それが逆に、自分の内側にある空虚さに蓋をしてしまっているのかもしれない。手は動くし、足も職場へ向かうけれど、心が置いてけぼりになっている。心ここにあらずとはまさにこのこと。頑張るエネルギーの根っこが見つからないと、ただの「稼働」になってしまうんだなと痛感する瞬間。
忙しいのに、満たされないこの感じ
不思議なことに、忙しい日ほど「自分はちゃんと働いてる」と思えるのに、夜になると虚しさが残る。仕事の山を乗り越えても、達成感は一瞬で消え去り、次の波がすぐ押し寄せてくる。周りからは「忙しそうでいいですね」と言われるが、その実態は自転車操業。忙しいだけで、自分が何を成し遂げているのかよくわからない。
成果が出ても満足感が続かない理由
例えば、不動産登記の案件をひと月で20件こなしても、「よし、やった!」と思えるのはその瞬間だけ。次の案件の電話が鳴った瞬間に、その達成感はリセットされる。司法書士という仕事は、基本的に「何かを完成させた」というより「ミスなくやり切る」ことに重きが置かれるから、拍手喝采のような場面がない。だから、満足感というより「無事に終わって良かった」という安堵しか残らない。
他人に言えない「もっと評価されたい」という本音
「頑張ってるね」とか「頼りになるね」とか、そんな一言が欲しい時がある。でも、それを自分から求めるのも格好悪い気がして、つい「まあ、仕事ですから」と言ってしまう。けど、心の奥では「俺だって褒められたいよ」と叫んでいる。40過ぎても、そういう承認欲求は消えない。むしろ歳を重ねるごとに、評価される機会が減っていく分、こっそり強くなる気がする。
独身生活の気楽さと孤独さのあいだで
誰にも気を遣わず、好きなものを食べ、好きな時間に寝る。それが独身生活の醍醐味だと思っていた。でも、夜の食卓に並ぶのがコンビニ弁当ばかりになると、さすがに虚しくなる。「おかえり」と言ってくれる誰かがいたら、たぶん今日の疲れも少しは違ったかもしれない。誰かに自分の頑張りを見てほしいという思いは、やっぱりどこかにある。
仕事が終わっても誰も待っていない
夕方、ようやく仕事が片付いて帰路につく。駅前で見かける家族連れやカップルが、別の世界の住人に見える。家に帰っても電気はついていないし、誰かが晩ごはんを作って待ってるわけでもない。テレビをつけて無音を紛らわせ、缶ビールを開ける。それで一日が終わる。何か物足りない。だけど、それが日常。
一人の夜にふと涙が出ることがある
ときどき、自分でも驚くほど情けなくなる夜がある。別に何があったわけでもない。ただ、心の奥がじわっと痛むような、そういう日。人の死に立ち会うこともある職業柄、感情の波を抑えがちだけど、それが蓄積していたのかもしれない。涙を流して少しだけスッキリして、また翌日、何事もなかったように朝を迎える。その繰り返しだ。