ふとした瞬間に湧く疑問 向いてるのかという問い
机に向かって登記の書類を整理しているとき、ふと頭をよぎる。「俺、この仕事に向いてるのかな」。気づけば司法書士として十五年。開業当初の気合いも、今ではだいぶ薄れてしまった。やることは山積み、電話は鳴りっぱなし、書類の不備に神経を尖らせる毎日。そんな生活を続けながら、「そもそも自分はこの道を選んでよかったんだろうか」と、自問自答してしまう日がある。答えは出ないけれど、その疑問だけはいつまでも胸の奥にしつこく居座っている。
何のために頑張っているのか分からなくなる朝
朝起きて、顔を洗って、弁当を持って事務所に向かう。それが当たり前になりすぎて、もはや感情が置いていかれているような日もある。依頼が入っても心が動かないことがあるし、達成感なんて最後に味わったのはいつだったかも思い出せない。元野球部の頃は、明確なゴールがあった。勝つために走り、打ち、声を出した。でも司法書士の仕事は、勝ち負けがない。成功しても喜ぶのは依頼人で、自分の中では空っぽのままだ。
依頼の電話が鳴っただけで心が重くなる
電話が鳴るたびに、一瞬身構えてしまう。めんどくさい案件だったらどうしよう、今は対応したくない、そんな気持ちが先に来る。昔は「おっ、新しい依頼だ」と少し嬉しかったはずなのに、今では重荷に感じることが多くなった。特に登記関連の相談は、説明が難しいし、先方にとっても理解しづらい。何度も説明し直しながら、言葉を選んで気を遣って、それでも伝わらないときの徒労感が辛い。たった一本の電話で、その日の気力が削られる。
それでも手を動かし続ける日々の理由
やめたいと思ったことは何度もある。だけどそのたびに、何もできずにまた朝が来てしまう。生活のためだ、と言ってしまえばそれまでだけど、それ以上に「自分が投げ出してしまった」という事実が怖い。誰かに責められるわけじゃないのに、元野球部としての「最後までやりきる」感覚がどこかに残っていて、自分に対して投げやりになれないのだ。向いてるかどうかは分からないけれど、「辞めないこと」だけは続けている。
「向いてるか」より「続けてるか」が先に立つ
いつからか、「この仕事が向いているかどうか」よりも、「この仕事を辞めずに今日もやっているか」に焦点が移っていった。誰かと競争しているわけでもないし、評価してくれる上司がいるわけでもない。だけど自分の中にある「やめたくない理由」が、思っていた以上にしぶとく生きていることに気づいたのだ。自分で選んだ道だからというだけではない。たぶん、もう他に行ける場所がないと、どこかで悟ってしまっている。
気づいたら辞めずにここまで来てしまった
開業してから十五年、気がつけば同じ机、同じパソコン、同じ事務員。もちろん入れ替わりはあったけれど、今となってはこの事務所が自分の居場所だと感じている。辞めようと思って行動したこともないわけじゃない。でも、そのたびに「今さら他の仕事に就けるか?」という現実が押し寄せてきた。向いていようがいまいが、ここが自分の戦場だと受け入れてしまったのかもしれない。
成功体験よりも、失敗から立ち直ることばかり
華やかな成功の記憶はほとんどない。あるのは、ミスした書類に冷や汗をかきながら対応した日々と、怒鳴られた電話に頭を下げた記憶ばかりだ。それでもやめなかったのは、きっとそれが日常になっていたから。「慣れ」と「諦め」の境界線の上で、なんとか立ち続けていたんだと思う。向いてる仕事だったら、もっと毎日が楽しいはずじゃないのか。そんなことを考えたところで、もう戻れない。
周りと比べると苦しくなるから比べないようにしてる
Facebookや司法書士会の報告会で、活躍している同期の話を耳にするたび、胃がキュッと痛くなる。みんな家庭を持って、事務所を拡大して、SNSでの集客にも成功してるらしい。俺はといえば、未だに一人事務員と細々やって、休みの日も書類を見てる。比べても意味がないと分かっていても、つい見てしまう。だから、できるだけ見ないようにしている。
同期は結婚して子どもがいて立派な事務所を構えてる
同級生と飲みに行くたび、「まだ独身かよ」と笑われる。でも心のどこかで、それが正解なんじゃないかと思ってる。俺には家庭を支えるだけの余裕がない。仕事に心を奪われてしまっていて、誰かにやさしくする余裕もない。事務所も小さなままだ。だけど、それでも「俺の場所」はここにある。誰かと比べて欠けている部分を数えるよりも、今あるものを維持することに力を使っている。
自分にしかない「小さな強み」を信じてやってきた
大きな案件は取れないけれど、地元の細かい相談ごとに丁寧に応えることだけはやめなかった。顔を覚えてもらって、「またお願い」と言われることが、俺の中の唯一の誇りだ。広告も出していない。SNSもしていない。でも、地元の人のなかでだけは、なんとか信用を積み上げてきた。向いてるかどうかより、誰かの役に立てたかどうか。それだけが頼りだ。
それでも「向いてるのか」の答えは出ない
どれだけ時間が経っても、「向いてるかどうか」の答えは出ない。むしろ年々、わからなくなっていく。だけど、そんな自分に「ダメだ」とは言わないようにしている。向いてる仕事なんて最初から分かる人はいないし、やってみないとわからない。それでも、やめないで続けているという事実だけが、唯一の証明になっている気がする。
クライアントの「ありがとう」に救われることもある
ときどき、依頼人が涙ぐみながら「助かりました」と言ってくれることがある。その瞬間だけは、「やっててよかったな」と思う。単発の感情にすぎないのかもしれないけれど、それでもあの一言の力は大きい。誰かの人生のほんの一場面に関われたこと、それがこの仕事の報酬なんだと思う。
でもその一言だけじゃ不安は消えない
「ありがとう」と言われても、不安がすべて消えるわけじゃない。翌朝になれば、また同じように「向いてないかもな」と思う。でも、それが現実なんだ。浮き沈みがある中で、それでも前を向くために、俺たちはこの仕事をしている。完璧なやりがいや満足感を求めてしまうと、苦しくなる。
向いてなくても生きていける場所を作る
自分に向いてないと思っても、そこに居場所を作ることはできる。仕事場というのは、職種の問題じゃなくて「どう続けるか」の問題だと感じる。小さな積み重ねの中にしか、自分の場所はできあがらない。華やかさはなくても、信頼されることの喜びを、少しずつ育ててきたつもりだ。
事務員さんが辞めずにいてくれることの意味
うちの事務員さんは、もう八年になる。よく続けてくれてると思う。給料も高くはないし、仕事も多い。それでも辞めないでくれてるということは、ここに何かしらの安心感があるということだと思いたい。向いているかどうかは分からなくても、続けられる環境を作る努力はしてきたつもりだ。
野球部時代の自分だったらなんて言うだろう
もし高校球児だった自分が、今の俺を見たらどう言うだろう。「なんだその中途半端な守備は」と言われるかもしれない。でもきっと、こうも言うと思う。「ボールが飛んできたら、ちゃんと前に出て止めたな」と。うまくいかない日もあるけれど、逃げずに守りきったことに意味がある。
悩む時間も、この仕事の一部なのかもしれない
向いてるかどうかで悩むことも、きっとこの仕事の一部なんだと思う。人に寄り添う仕事をしているからこそ、自分にも厳しくなってしまう。だけど、その迷いや弱さの中にこそ、人間らしさがある。完璧じゃないからこそ、続ける意味があるのかもしれない。
向いてるか向いてないかじゃなくて
結局、向いてるかどうかは誰にも分からない。本人でさえ分からない。でも、「今日も仕事に向かった」「また一つ書類を仕上げた」という事実がある。それで十分なのかもしれない。向いていなくても、必要としてくれる誰かがいるなら、それは立派な仕事だ。
今日もなんとか生き延びたことに小さく拍手を
今日も疲れて帰ってきて、冷えた晩飯を一人で食べながら「なんでこの仕事してるんだろう」と思う。でも、それでも一日を終えた自分に「おつかれ」と言いたい。答えなんてなくていい。ただ、毎日をこなして、時々誰かの役に立って、少し笑えるなら。それだけで、生きる意味としては十分すぎる。