なぜか素直に祝えなかった朝
朝、スマホに届いた「結婚しました!」のLINE。笑顔の2ショット写真。心から「おめでとう」と返したいのに、指が止まった。ああ、またか……そんな言葉が心の奥でつぶやかれていた。お祝いの気持ちがないわけじゃない。でも、どうしても胸の中に引っかかりのようなものが残る。自分がこんなふうに捻くれてしまったのかと思うと、情けなくもなる。独身で、地方で事務所を細々と回し、日々の仕事に追われる毎日。誰かの幸せを喜ぶ余裕さえ、失ってしまったのかもしれない。
報告のLINEが届いた瞬間の違和感
「あいつが結婚かあ、すごいな…」と一応は思う。でも、正直に言えば「そんな余裕、どこにあったんだ?」と不思議に感じた。お祝いメッセージを書きながら、内心では比較のスイッチが入ってしまっている。自分は朝から登記の準備、昨日のミスのリカバリに追われている最中。そんなときに、晴れやかな報告を見せつけられると、気持ちがざわつくのだ。幸せなニュースが、祝福よりも先に寂しさを連れてくる。この感覚に、どこかで覚えがあった。
祝う気持ちとモヤモヤのせめぎ合い
「おめでとう」と打った後、少し画面を見つめていた。心のどこかで、「本当に心から言えたか?」と自問していた。いや、言えたつもりだった。でも何かが引っかかる。素直に祝えない自分を責める気持ちと、それでも仕方ないよなという開き直りが交互に来る。人の幸せがうらやましく思えるとき、それは自分が満たされていない証なのかもしれない。そんな自覚があるからこそ、余計に苦しくなるのかもしれない。
感情に理由をつけたがる自分
「忙しいからだ」「今は大変な時期だからだ」そうやって、自分のモヤモヤに理由を与えようとする。けれど本当の理由は、もっと単純なのかもしれない。誰かに必要とされている実感が欲しい。誰かとつながっていたい。そんな人間らしい願望が、日々の書類や電話対応に埋もれて見えなくなっている。だからこそ、人の幸せがまぶしくて、思わず目をそらしたくなるのだ。
誰かの幸せがまぶしく見える理由
日常があまりにルーチン化してくると、「自分の人生はこれでいいのか?」という問いが不意に頭をもたげる。事務所を回すことに必死になっていたはずなのに、他人の輝かしい瞬間を見せられると、どうしても自分の現状と比べてしまう。誰かの幸せが、まぶしくて直視できないのは、自分がどこかで足踏みしている自覚があるからなのかもしれない。
忙しさの中でこぼれた感情
朝8時にはもう電話が鳴る。登記申請の確認、依頼者からの急ぎの依頼、そして午後は役所へ走る。ひとり事務所の現実は、効率とは程遠い。事務員の彼女もよく頑張ってくれているが、すべてを任せるにはまだ不安が残る。そんな状況の中で、感情をゆっくり味わう余裕なんてない。忙しさにかまけて、嬉しさも寂しさも、どこかに押し込めてしまっていたのだ。
他人の幸せと自分の現実の落差
学生時代の仲間は次々と家庭を持ち、子どもの写真を年賀状に載せてくる。こちらはといえば、年末は不動産登記でひいひい言っていた。夜中にコンビニでカップ麺をすすりながら、ふと「俺、何やってるんだろう」と思うことがある。他人の幸せが特別に見えるのは、自分が何も持っていない気がしているから。そう感じてしまう日があるのは、きっと自分だけではないと思いたい。
たとえば登録免許税の計算ミスで徹夜した昨日
昨日、ひとつのミスが命取りになりそうだった。登録免許税を間違えて計算してしまい、補正通知。深夜までリカバリ対応に追われ、なんとか朝一で再提出。事務員にも気を遣わせてしまった。こんな泥だらけの毎日の中で、誰かのウェディングドレス姿を見せられたって、そりゃ眩しすぎるに決まってる。心の中の「おめでとう」が小さくなるのも、無理はない。
誇れるものが見つからない午後
仕事をしていても、ふと「これ、本当に誰かの役に立ってるのか?」と思う瞬間がある。手続きに追われ、感謝の言葉をもらう余裕もない依頼もある。そんな午後、ふと空を見上げても、気持ちは晴れない。誇れるものを探しても、何も手応えがない日がある。そんなときに、他人の幸せが目についてしまうのは仕方がない。
元野球部の自分が忘れていたこと
高校時代、野球部で一緒だった仲間のヒットを心から喜んでいた。自分がベンチで声を張り上げていた日も、グラウンドの泥だらけのユニフォームさえ誇らしかった。今の自分にその気持ちはあるだろうか。仲間と共に勝ち負けを分かち合ったあの頃の、素直な感情を忘れていないか、ふと考えた。
仲間のヒットを心から喜べていた日々
試合で誰かが活躍すれば、自分のことのように嬉しかった。「よくやった!」とハイタッチを交わすあの瞬間。心から祝福できたのは、同じ目標に向かっていたからだったと思う。今はどうだろう。同業者の成功や友人の結婚に、拍手を送る余裕があるだろうか。ひとりで戦っていると、祝福の感情も孤立してしまうのかもしれない。
勝利と敗北をともに抱えていた時間
勝ったときは一緒に喜び、負けたときは黙って肩を叩きあった。あの頃の時間には、確かに人とのつながりがあった。今の仕事は、どちらかといえば「個」の積み重ね。登記の成功も失敗も、最終的には自分一人の責任。だからこそ、誰かと喜びを分かち合うことに、戸惑いを感じてしまうのかもしれない。
今は一人で喜びも悔しさも処理している
事務所をひとりで切り盛りしていると、仕事の成否すべてが自分に返ってくる。成功しても黙ってパソコンを閉じるだけ、ミスをしても誰にも言えず、夜に反省会をするのは鏡の前の自分だけ。誰かの喜びに反応する余裕なんて、心の棚にしまったままだ。
あのときの素直さはどこへ行った
野球部時代の自分なら、きっと誰かの幸せを素直に喜べていた。なのに今の自分はどうだろう。嫉妬?自己否定?よくわからない感情が先に来てしまう。この差は、きっと心の余裕の差。もう一度、あのときのように、誰かを応援できる自分に戻りたいと願っている。
事務所に戻ってきた自分と小さな会話
昼過ぎ、ようやく外回りから帰ってくると、事務員が「なんか今日、機嫌悪いですね」と笑いながら言った。無意識のうちに、顔に出てしまっていたのだろう。少し恥ずかしくなって、「そんなことないよ」とごまかしたが、その一言で少しだけ心が軽くなった。誰かと交わす小さな会話が、自分をつなぎとめている気がした。
「今日は機嫌悪いですね」と事務員に言われて
その言葉が、意外と効いた。自分では平気なふりをしていたけれど、やっぱり心が疲れていたのだと思う。ふとした他人の視線や言葉に救われる瞬間がある。独りよがりになっていた自分を、ちょっとだけ笑い飛ばすきっかけになった。
誰かと共有する時間が救いになることもある
ランチを買って帰ったコンビニで、アイスコーヒーを二本買った。「こっちはおまけ」と言って事務員に渡すと、ちょっと驚いた顔で「ありがとうございます」と返ってきた。そのやりとりで、少しだけ今日の自分が肯定された気がした。孤独に浸るよりも、人と交わることで救われる日もあるのだ。
喜べない自分を責める必要はない
誰かの幸せが喜べない日もある。それを「悪いことだ」と決めつける必要はない。そんな日もある、ただそれだけのこと。人間なんだから、全部素直に受け入れられるわけじゃない。それを否定せず、認めていくことが、自分を立て直す一歩になる。
感情は他人と比べるものじゃない
誰かの幸せがまぶしく見えても、それはその人の物語。自分の感情にフタをせず、「今はちょっとだけしんどい」と自覚できれば、それで十分だ。他人の感情やペースと比べることに意味はない。自分の歩幅で、自分の機嫌と付き合っていけばいい。
時にはそういう日もあると認める
毎日100点の自分でいようとしなくていい。今日は60点、明日は30点かもしれない。でも、0点じゃなきゃ大丈夫。誰かの幸せに目を細めることができなかった日も、またひとつの経験として積み重ねていけばいい。それもまた、自分なりの人生のかたちだ。
頑張ってる誰かを妬むのは自然なこと
あいつばっかりうまくいってる、そう思うことがあっても、それは普通だ。人間は弱いし、複雑だし、簡単に他人を祝えない日もある。でも、それでもいい。自分が自分に正直であれば、それで十分。
それでも少しだけ前を向けたらいい
心のどこかに、ほんの少しだけ「よかったな」と思えたなら、それはもう十分立派だと思う。誰かの幸せを祝えるようになる日が、また来るかもしれない。そのときの自分に、少しでも優しくできたら、それでいい。