終電に揺られながら働く理由を考えた夜

終電に揺られながら働く理由を考えた夜

一日の終わりにふと湧いてくる問い

終電の車内、窓にもたれて外を見ていると、不意に胸の奥から湧いてくるのが「俺は何のために働いているんだろう」という問いです。人のいない駅を過ぎるたびに、まるで自分だけが取り残されたような感覚になります。疲れ切った体、静かな車内、ほのかに香るコンビニの袋の匂い。そんな空間にいると、日々の喧騒とは違った思考がよぎってくるのです。「これ、誰のための時間なんだろうな」って。

終電の車内で感じる虚無感

仕事が終わってから職場を出るときにはもう街は真っ暗。食事もそこそこに片付け、帰宅はいつも終電ギリギリ。そんな日々が積み重なると、感情が麻痺してきます。若い頃は達成感や成長を感じていたことも、今は「今日も何とか終わったな」という安堵と疲労だけ。周囲は寝静まり、電車の揺れが心地いいはずなのに、なんだか自分だけが無重力の世界に取り残されているような感覚に陥ります。

疲労と静けさに包まれる帰路

車内は静かで、周りの乗客もみんなぐったりしている。スマホを見る余裕すらなく、天井の広告をぼんやり眺めながら「今日の依頼、あれで良かったのかな」と思い返す。こういうとき、自分が一人で全責任を背負っていることが、重くのしかかってきます。誰かに任せることもできず、愚痴を言う相手もいない。唯一の事務員も早く帰らせているから、余計に孤独です。

窓に映る自分の顔が語るもの

ふと、暗い窓に映った自分の顔を見て、我ながら驚きました。目の下のクマ、少し伸びた白髪、どこか遠くを見つめるような表情。まるで何かを諦めたような顔でした。「これが今の俺か」と思った瞬間、ため息が漏れてしまいました。昔、甲子園を夢見て白球を追っていた頃とはまるで違う。でも、それが「大人になる」ってことなんでしょうか。何かを選び、何かを捨ててきた、その結果がこれなのかもしれません。

働く理由を見失いかけた瞬間

開業してから十数年。地道にやってきたつもりです。でも最近、「このままでいいのか?」という不安がふとした瞬間に襲ってきます。きっかけは些細なこと。書類の不備で役所に二度足を運ぶ羽目になったり、依頼者から理不尽な怒りをぶつけられたり。そんな一日が続いた夜、終電で帰る途中にその問いが顔を出すのです。俺はいったい、何のためにこんなに働いてるんだろうかと。

「なんでこんなに頑張ってるんだっけ?」

誰のために?生活のため?依頼人のため?答えがどれもしっくりこない。とくに家庭があるわけでも、守るべき家族がいるわけでもない。だったら、もっと楽に働ける職場でも良かったのでは?とすら思ってしまいます。でも司法書士を辞めたら、残るのは何なんでしょう。肩書がなくなった自分を想像して、ゾッとしたこともあります。だからこそ、続けているのかもしれません。

若い頃に描いていた未来とのズレ

開業前、研修所で出会った同期たちと「将来はこうなりたい」と語り合った日々が懐かしい。お互いの夢を語り、励まし合い、支え合っていたあの頃。けれど現実は厳しく、思い描いた理想にはなかなか届きません。気がつけば、あの頃の仲間とも疎遠になり、LINEも未読スルーのまま。「忙しいから」と言い訳してきたけど、本当は少し、羨ましかったのかもしれません。

誰にも褒められない日々の連続

地味な書類仕事、誰かのトラブル処理、登記のミスを防ぐための慎重な確認作業。誰かに「ありがとう」と言われることはあっても、それが心に響くことは少ない。褒められなくてもいい。でも、誰かに「よくやってるよ」と言ってもらえたら救われる。そんな気持ちを抱えたまま、終電に揺られて家に向かう。自己満足だけでは、心は持たない日もあるんです。

依頼人の一言が支えになるときもある

それでも続けられているのは、ほんの些細な瞬間に救われているからです。例えば、遺産分割の相談で泣いていた依頼者が、手続き完了後に深々と頭を下げて「先生のおかげです」と言ってくれた日。ああ、この人の人生に少しだけ役立てたんだな、と実感したことは、今も胸に残っています。そんな瞬間が、年に何回かでもある限り、辞められないんでしょうね。

たった一言が胸に残る日もある

「他の司法書士さんにも相談しましたが、やっぱり先生が一番信頼できました」。そんな言葉をもらった日には、思わず電車の中でニヤニヤしてしまいました。誰かに必要とされている実感。それがどれほど人を支える力になるか、身にしみて分かります。でも、それを求めすぎると苦しくなることもある。だから、自分の中でその言葉を丁寧にしまっておくようにしています。

それでもやめない理由を探して

本音を言えば、楽になりたいです。でも、やめたとしても後悔する気がするんです。何も残らない気がして。だったら、もう少し踏ん張ってみようか、という気持ちになる。しんどい日々の中でも、ひとつだけ誇れることがあるとすれば、「逃げずにここまでやってきたこと」だけかもしれません。それが自信ではないけれど、自分を支える柱のようなものにはなっていると思います。

他人の人生に少しでも関われる喜び

司法書士の仕事は、表に出ることは少ないですが、確実に誰かの人生の節目に関わっています。不動産の売買、遺言、相続、離婚…どれも人生の転機です。そこに立ち会えるというのは、ある意味では光栄なこと。そう思える日があるから、まだ辞めずに済んでいます。地味だけど、無力じゃない。そう思えるだけで、少し心が軽くなるんです。

答えは出ないけれど考え続ける

「何のために働いているのか」という問いに、明確な答えはありません。でも、考えることをやめたら、ただの作業になってしまう。意味なんて後からついてくるのかもしれません。それでも問い続けることで、心の中に一本の軸ができる。そんな気がしています。終電に揺られながら、今日もまた考えるのです。「俺は、何のために明日も働くのだろうか」と。

正解なんてないけれど

この問いに正解なんてありません。きっと人によって違うし、時期によっても変わってくる。でも、それでいいんだと思います。正しさより、自分が納得できるかどうかが大事なんでしょう。昔は「意味のある仕事をしたい」と思っていましたが、今は「意味があったと思える瞬間を少しでも多く持ちたい」と思っています。

問い続けること自体が意味かもしれない

意味を探し続ける過程こそが、生きている証なのかもしれません。惰性ではなく、疑問を持ちながら続けていくこと。それが苦しくもあり、救いでもある。問いを抱えたまま生きるのは不安定だけど、その不安定さこそが、自分を人間らしくしてくれている気がします。だから今日も、終電に揺られながら、問いかけを続けています。

また明日も仕事があるから

いろいろ考えても、明日はまた仕事です。依頼は待ってくれないし、期限はどんどん迫ってくる。それでも一歩ずつ、また歩くしかない。派手な人生ではないけれど、こんな自分でも、誰かの役に立っているなら、もう少し頑張ろうと思えるんです。終電の窓に映る自分の顔に、少しだけ「お疲れ」と声をかけてあげながら、今日も家路につきます。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。