謄本の束に挟まれた違和感
古びた紙の匂いが、事務所の乾いた空気に混じって立ち込めていた。
手元には、分厚い謄本の束。紙が茶色く焼け、ところどころ擦れている。
その束の中に、一枚だけ異質な紙が混じっていることに、俺は気づいた。
午前中に持ち込まれた古い書類
依頼者は近所に住む老婦人で、夫の遺産の整理だと言っていた。
「登記のことはさっぱりわかりませんので…」と語る口ぶりに、どこか諦念が滲んでいた。
俺はその書類をただの相続案件と思い、深くは気にしなかった。
セピア色の封筒と懐かしい名前
封筒の表に書かれていた名前を見て、手が止まった。
「カワグチユウジ」──どこかで聞いたことのある響きだった。
記憶の中に眠っていた高校時代の野球部の先輩の顔が、不意に浮かび上がった。
依頼者の様子と口にできない秘密
書類を返しに行った際、老婦人はしばらく黙っていた。
「これは…息子の名義になってますけど…実際は違うんですの」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
口数の少ない老婦人
「本当はね、彼のものだったんです」
老婦人は遠くを見つめながら、そう呟いた。
「でも籍も入れなかったし、登記もそのままにしてしまって…」
サトウさんの冷静な分析
俺の話を聞き終えたサトウさんは、表情一つ変えずにPCを叩いていた。
「これは贈与の形に見せかけて、実は…」と、書類の不整合をすぐに指摘した。
やれやれ、、、またしても彼女に助けられることになるとは。
登記簿に記された奇妙な変更履歴
昭和50年代の所有権移転。理由は「贈与」とあるが、委任状や添付書類に不自然な点があった。
登記原因証明情報も記載ミスがあるようで、印鑑の字体も微妙に違う。
まるで誰かが形だけ整えて済ませたような、そんな登記だった。
昭和の法改正の影響を疑う
「この頃は女性の単独名義って珍しかったんですよ」とサトウさんは言った。
「たぶん、当時の常識で、愛人名義なんて持たせられなかったんでしょうね」
その一言に、俺は答えに詰まった。
シンドウのうっかりと直感
書類のファイルをひっくり返していると、うっかり順番を間違えて挟み込んでしまった。
が、それが却ってヒントになった。
違う名義で作成された謄本が、同じ不動産に二重に関係していることに気づいたのだ。
資料の順番を間違えてひらめく
「こっちが先で、これが後…あれ?」
年代が逆になっているように見えたが、それが事実だった。
まるで、最初の所有者の存在を消すような手続きだった。
やれやれ、、、またサトウさんに呆れられた
俺の説明を聞いたサトウさんは、口角をわずかに上げた。
「……気づくの、遅いですね」
まったく、やれやれ、、、この事務所では誰が司法書士かわかったもんじゃない。
謄本の名義に潜むもうひとつの物語
その登記の裏には、認められなかった愛があった。
正式な名義変更をせず、遺された不動産に名前を残すことすらできなかった。
だが、登記簿はすべてを知っていた。
知られざる贈与と抹消されなかった思い出
表向きは贈与、実際は約束された「共に暮らすはずだった家」だったのかもしれない。
だが、その約束は果たされなかった。
彼の名が謄本から消えても、思い出は封印されず残っていた。
謎を解く鍵は婚姻前の筆跡
別の書類の署名に、同じ筆跡が見つかった。
そこには旧姓のまま、彼の名と並んで記された申請書があった。
俺は、その書類をそっと老婦人に見せた。
戸籍では追えない真実
登記と戸籍は連動しているようで、完全には繋がっていない。
過去の名義が語る事実は、法律では拾いきれない断片だった。
だがそれでも、誰かにとっては確かな記憶の証なのだ。
シンドウの決断と法の限界
この件に関して、名義の訂正や真実の反映はできない。
だが、それでも伝えたい気持ちは残る。
法が拾い上げられなかったその想いを、俺が預かることにした。
今さら変更はできないという現実
既に被相続人も、相続人も代替わりしている。
もはや法的にできることは限られていた。
だが、彼の名前を登記簿に見つけたときの老婦人の顔が忘れられなかった。
老婦人の涙と語られなかった恋
「もう、これでいいんです」
彼女は謄本をそっと胸に抱いて言った。
「やっと彼に報告できます」
封筒に収められた未送信の手紙
そこには薄く色あせた便箋に、一筆書かれた文字。
「いつか一緒に暮らせたら嬉しいです」
──それは、謄本には記載されない、人生の片隅に残された契約書だった。
事件は解決しない だが終わる
事件はなかった。殺人も盗難もない。
ただ、一つの記憶と一つの約束が、登記の隙間から顔を覗かせただけだ。
それでも、俺にとっては十分すぎる謎だった。
登記簿の記載は変わらないまま
紙の上の名前は、そのままにしておく。
それが、彼女と彼の最後の距離感だったのかもしれない。
「これでいいんです」──その言葉が、妙に重く響いた。
帰り道 サトウさんの一言
「昔の恋なんて記録しなくて正解ですよ」
サトウさんの言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。
だがそれは、本当にそうだろうか。
やれやれ、、、誰か俺にも記録を残してくれ
夕暮れの帰り道、自転車のブレーキがきしむ音だけが響いていた。
やれやれ、、、俺の人生には、誰か書き込んでくれる人がいるんだろうか。
謄本よりも空白の多いこの人生に、いつか名前が刻まれることを願って。