生きる意味を見失った日は事務所の蛍光灯が眩しすぎる

生きる意味を見失った日は事務所の蛍光灯が眩しすぎる

朝が来るのが怖いという感情

目覚ましが鳴っても起きたくない日がある。目を開けて、天井を見上げた瞬間から、もう一日が始まってしまったことに軽く絶望する。司法書士という職業を選び、独立までしておいてなんだが、朝が来るのがこんなに重いとは思っていなかった。理由もなく「今日も頑張ろう」とは思えず、ただ、淡々とした業務に押し流されていくだけの日々。特に何かがあったわけではない。でも、心がどこかで置き去りになってしまったような、そんな気分になる。事務所の蛍光灯の白さが、そんな虚しさを際立たせてくる。

予定が詰まっているのに心が動かない

Googleカレンダーには予定がびっしり入っている。登記の相談、相続の書類、法務局への提出期限。誰かから見れば「順調に仕事がある状態」に見えるかもしれない。でも、それらの予定がまったく心を動かさない。毎日同じように業務をこなして、同じように「ありがとうございました」と頭を下げるだけ。気づけば、一日の終わりに「今日、自分は何かをやったんだろうか」と疑問に思うことすらある。昔の自分なら、「忙しい=充実」と思っていた。でも今は、ただ消耗しているだけのように感じる。

カレンダーに書かれた名前の重さ

予定に記されたのは、誰かの名前。それは相続人であったり、会社の代表者だったりする。その名前の一つひとつに、事情や物語が詰まっているのは理解している。だけど最近、その名前がただの文字列にしか見えないときがある。ああ、また書類を作るだけか。また説明して、印鑑をもらって、郵送して終わりか。相手には人生の一大事でも、こちらには「ルーティン」のひとつになってしまう。そんな自分が少し怖い。

無感情で始まる午前九時

事務所のドアを開けて、蛍光灯を点けて、パソコンを立ち上げる。毎日同じ手順。別に誰に見せるわけでもないけれど、ちゃんと身だしなみは整えているつもり。でも、鏡に映る顔がやけに疲れて見える。電話が鳴っても、心のどこかが無反応なまま。かといって放っておくわけにもいかない。自動的に業務をこなすロボットみたいに、今日もまた午前九時が無感情で始まる。

「やりがい」の正体がわからなくなった

昔は、依頼人に「助かりました」と言われると嬉しかった。やりがいって、そういうことだと思っていた。でもいつからか、その言葉も自分の中に響かなくなった。ただの業務完了の報告として聞き流している自分がいる。やりがいって、何だろう。本当にそれが目的だったのか。何かを得るために必死だった時代が、今となっては嘘のように思える。

依頼人の笑顔に何も感じない日

「ほんとに助かりました、先生」。その笑顔はきっと本物だった。でも、自分の心は動かない。ありがとう、と返しながらも、内心は「終わったな」としか思っていない。相手の喜びが、自分の喜びと直結しなくなったとき、この仕事はなんのためにやってるのか、と考えるようになった。誰かのためという言葉が、ただの建前に聞こえる日もある。

士業という肩書きに寄りかかる自分

「司法書士」という肩書きが、自分を守ってくれる鎧のようになっていた。でも、その鎧の内側で何も感じないまま動いている自分は、ただの空洞かもしれない。肩書きで自分の存在を証明しないと怖くて仕方がない。元野球部でがむしゃらに頑張っていたあの頃の熱量は、今のどこに残っているのだろう。

それでもまだここにいる理由

それでも不思議と、事務所に来てしまう。意味があるとは思えなくても、今日も椅子に座ってキーボードを叩く。もしかすると、ここにいることでしか自分の存在を確かめられないのかもしれない。逃げ出すこともできる。でも、結局戻ってくる。そんな自分に、呆れながらも少し安心している。

辞めない理由より辞められない理由

「まだ続けてるの?」「すごいね」なんて言われることがある。でも実際は、やめられないだけかもしれない。辞めたあとの自分を想像できない。他に何ができるのかわからない。不安定でも、この場所にとどまるほうがまだマシに思える。選び直すことへの恐怖が、足を重くしているのだ。

逃げ道を作らなかった自分の選択

司法書士一本でやっていくと決めたとき、他の可能性を自分で消した。大学時代、友人たちはいろんな業種に散らばっていった。でも自分は、これと決めてしまった。今さら別の道なんて、と自分で自分に言い聞かせている。自信と頑固さの境界が、わからなくなってきた。

仕事にしがみつくことで保っているバランス

この仕事があるから、社会とつながっていられる。電話がかかってくるから、今日も人と話せる。依頼人が来るから、顔を上げて接客できる。仕事がなければ、きっと誰とも話さず、一日中部屋にこもってしまう気がする。そう思うと、この職業が自分の命綱になっているのかもしれない。

意味なんてなくても続けてしまう日常

意味を見出せなくても、手を動かすことだけはできる。書類を作る、申請を出す、相談に乗る。それがルーティンでしかなくなったとしても、それをやめる理由もない。人間は案外、意味より習慣で動く生き物なんだろうと思う。意味がないならやらない、というわけにはいかないのが現実だ。

ただ明日も事務所の鍵を開けるだけ

朝、事務所に来て鍵を開ける。蛍光灯を点けて、コーヒーを淹れる。それが生きている証拠になる日もある。深い意味なんて、いらないのかもしれない。ただ、自分の場所がそこにあることが、大事なのかもしれない。それを続けていくことが、生きることに繋がっていく気がしている。

誰かの役に立てたかもしれないという希望

たまに思い出す。数年前に相続手続きをした高齢の方が、「先生がいてくれて良かった」と言ってくれたこと。その言葉だけで一年頑張れた。たった一言でも、救われる瞬間がある。それだけで十分かもしれない。意味があるかなんて、後でわかるものなのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。