登記簿が語る家族の影
その日、雨はしとしとと降っていた。湿った空気の中で、事務所の古びた木製ドアがぎぃと音を立てて開いた。小さな傘を畳みながら入ってきた女性は、見るからに疲れ切った表情をしていた。
「相続の相談なのですが」——その言葉が、すべての始まりだった。
奇妙な依頼と静かな来訪者
彼女の名は倉橋美沙。亡くなった父の遺産について相談に来たとのことだった。形式としてはよくある内容だが、話の端々にひっかかるものがあった。
彼女は父親と疎遠で、葬儀にも間に合わなかったらしい。しかし、驚くべきは、その父が亡くなる数ヶ月前に「ある人物」と養子縁組をしていたという事実だった。
雨の日の事務所に現れた女性
「父が養子を取るなんて聞いたこともありません」美沙はそう言って、バッグからコピーを取り出した。確かに戸籍には、見慣れぬ名前が養子として載っていた。
名前は倉橋優太。年齢は二十七。彼女の弟として記載されていたが、生前の父の話にそんな人物は一切出てこなかったという。
遺産分割の相談かと思いきや
「これって、本当に正当な手続きなんでしょうか?」彼女の質問はもっともだった。戸籍の写しを見る限り、手続きそのものには不審な点はない。
しかし、私の司法書士としての直感が「何かがおかしい」と告げていた。養子縁組届の提出時期、証人の名前、そして書類の筆跡——違和感の連鎖が始まっていた。
被相続人の不審な死
倉橋氏の死因は「老衰」。だが、死亡診断書には記入漏れがいくつかあり、どこか急ごしらえの印象を受けた。介護施設の記録も、やや曖昧だった。
「施設に行ってみますか?」とサトウさん。塩対応とは裏腹に、いつもながら行動は迅速だ。私は傘を取り、ため息をついて立ち上がった。
死因は自然死とされたが
施設の職員は丁寧だったが、口を濁す場面も多かった。倉橋氏の亡くなる数日前に、一度だけ面会者があったという。
その人物の名前は「倉橋優太」。入館記録にしっかりと残っていたが、連絡先は架空のものだった。さらに疑惑が深まった。
登記簿に残る奇妙な変更履歴
登記簿謄本を確認すると、亡くなる直前に土地の一部が贈与として移転していた。しかも受贈者はその優太とやらの名前だった。
署名欄の筆跡が、微妙に違う。私は思わずペンを落とした。「これは…同一人物のものじゃないかもしれない」
浮かび上がるもう一つの相続人
登記内容の精査と戸籍の変遷を追っていくうちに、倉橋優太の過去が見えてきた。彼は、別の家庭で育った養子ではなく、完全な第三者だった。
法定相続人の地位を得るため、偽造された養子縁組の可能性が濃厚となった。だが、それをどう証明するかが問題だった。
存在しないはずの養子縁組
養子縁組届が提出された役所に問い合わせると、原本は紛失しているとのこと。デジタルデータしか残っておらず、証人欄の確認もできない。
唯一の手がかりは、委任状に添付された手書きの文章だった。「これ…字体が古すぎませんか?」とサトウさん。確かに、最近書いたとは思えなかった。
家庭裁判所の記録と矛盾する内容
家庭裁判所で確認したが、倉橋氏の側には認知症などの申請は一切なかった。それなのに、全ての書類は本人署名で通っている。
誰かが倉橋氏になりすまして署名をしたとしか思えなかった。サザエさんで言えば、波平の筆跡が急にカツオになってるようなものだ。
サトウさんの冷静な推理
「これ、委任状に使われている用紙、旧様式ですよ。平成初期の。」冷静に指摘するサトウさんに、私はまたも頭が下がる。
そして、彼女は登記申請書に添付された本人確認資料に目を留めた。「この免許証、発行日が死亡日より後です」
資料の端に残された違和感
そこに気づいたとき、パズルのピースが一気に揃った気がした。優太は完全に偽造した身分で、登記も相続も奪い取るための手段だった。
だがここまでくると、登記の抹消だけでは終わらない。刑事事件としての線も浮上してくる。
司法書士の登記申請書に仕込まれた嘘
登記の添付書類にあった「前提の公正証書」。その日付が、全く別件の公証役場の記録と一致していた。つまり、そこから文書が盗まれ、加工された可能性がある。
「やれやれ、、、これだから司法書士ってのは油断できない仕事だ」私は独りごちた。
決定的証拠と反撃の一手
私たちは全ての資料をまとめ、警察と法務局に報告を行った。幸いにも、登記官が内部照合してくれたことで、偽造の証拠が認定された。
優太は書類送検され、登記も無効に。美沙さんは涙ながらに「ありがとうございます」と頭を下げた。
供述調書と登記資料の照合作業
供述調書には、彼が「相続で一発逆転を狙った」と語っていた。動機は金、手口は巧妙。しかし、登記と戸籍、すべてが絡んでいたことで、ほつれは見つかった。
司法書士の仕事は、時に人の欲望の裏側を覗くことにもなる。だが、そこで見逃してはいけないのは「記録の真実」だ。
サトウさんは今日も塩対応
「別に、私の推理じゃありませんし」と彼女はぼそりと言った。「全部シンドウ先生の…まあ、勘ですから」
……たしかに、勘だったかもしれない。でも、それを補ってくれるのは、いつもこの事務所にいる名(塩)探偵だった。
また次の依頼が舞い込む音がする
ドアが再びきぃと鳴る。次の依頼人が、傘を手に立っていた。「先生、ちょっと登記で困ってまして」
「やれやれ、、、今日も帰れそうにないな」私はネクタイを緩めて、椅子に座り直した。