それって自分のための登記ですか
依頼じゃない登記に気づいた日
毎日毎日、誰かの登記。誰かの不動産。誰かの相続。そうやって他人の名義ばかり整えてきた。けれど、ふと自分自身のことになると、なぜか全然手がつかない。そんな自分に気づいたのは、ある休日に実家に帰ったときのことだった。母に「この土地、まだお父さんの名義なのよねぇ…」とぽつり。あれだけ他人には「名義をきちんと整えましょう」と偉そうに言っていたのに、自分の実家すら放置していたことに、情けなさと呆れがこみあげてきた。
人のための登記ばかりしてきた
独立してからというもの、業務は増えるばかり。司法書士という職業柄、人の不動産、会社、相続と「名義を整える」ことが日常だ。でも、自分のこととなると妙に鈍い。「まあ今度でいいや」「別に急ぐ話でもないし」…そんな後回しが癖になっていた。事務所の登記も、実は更新をうっかり忘れかけていたことがある。事務員に突っ込まれて青ざめた日も、今では笑えない思い出だ。
「あんた自身はどうなん」と言われて
ある日、昔の友人と飲んだ席でこう言われた。「で、お前自身は、登記ちゃんとしてんの?」と。図星だった。自分のマンションも、実家の土地も、相続の手続きも「忙しさ」にかまけて手をつけていなかった。他人の登記には期限も責任も感じていたのに、自分のものは“なんとなく”放置していた事実に、なんとも言えない恥ずかしさがあった。
名義変更を先延ばしにしていた自分
父が亡くなってからすでに10年が経つ。その間、実家の土地の名義変更をせずにいた。毎年の固定資産税は母が支払っていたけれど、登記簿上はまだ父のまま。こういう案件、依頼では「早くしないと後で面倒ですよ」って散々言ってきたのに、自分の家庭に対しては「ま、うちなら大丈夫だろう」と楽観していた。プロとして一番やっちゃいけないことを、当たり前のようにやっていた自分がいた。
登記って誰のためにあるんだろう
そもそも登記って、誰のためにあるのか。依頼をこなすうちに、「依頼人のため」「第三者のため」としか思わなくなっていた。でも本来は、「自分の権利を守るため」の制度だ。自分自身が所有するもの、自分自身の生活、そして自分の将来のためにある。その根本に立ち返ったとき、少し胸が痛くなった。
登記簿に名前が載ることの意味
登記簿に名前が載る。それはつまり、「自分の権利を可視化する」ということだ。他人に見せるためでも、役所のためでもなく、自分が自分の権利をちゃんと主張できるかどうか。所有権、役員としての地位、代表者としての責任、それらを「書類」にする意味を、自分のこととなるとどうして軽んじてしまうのか。情けない話だけど、「面倒」という感情が、自分の権利をないがしろにしていた。
権利の保全と放置の代償
昔、名義放置が原因で揉めた相続案件を思い出す。兄弟間で20年以上も名義が放置され、関係がこじれてしまった家族。結局、司法書士の手ではどうにもならず、調停にまで発展した。あのとき「もっと早くにやっておけば…」と泣いていた依頼者の顔が、いま自分の母と重なる。プロだからこそ、自分の家こそ一番先に整えるべきだったのかもしれない。
他人の案件では厳しく言うのに
「今のうちにやっておいた方がいいですよ」「面倒でも今やっときましょう」…そんな言葉を、私は何百回も使ってきた。でもそのたび、心の中では「自分はやってないくせに」とツッコミを入れていた。誰かに言われたからではなく、心の奥でずっと気づいていたのだと思う。本当は、自分の登記にこそ一番向き合わなきゃいけなかった。
気づけば手遅れだった話もある
士業というのは、意外と“身内のこと”を後回しにしがちだ。気づけば名義人が亡くなっていたり、印鑑証明の期限が切れていたり。そんなケースを何度も見てきたはずなのに、自分だけは大丈夫と信じてしまう。慢心だろうか、単なる怠慢だろうか。でも、放置の先にあるのは必ず「後悔」だと、身に染みて感じた。
「後回しにしてたら名義人が亡くなった」
ある依頼者は、「もうすぐやるつもりだった」と泣きながら語った。高齢の母の名義をそのままにしていたら、急な病で亡くなってしまった。その結果、相続人が急増し、話はまとまらず、時間とお金と心をすり減らす事態に。自分の家庭も、実は似たような状況だったと思う。母が元気なうちにやらなければ、きっと自分も同じ後悔を抱えていた。
相続登記義務化の背景にある現実
相続登記の義務化が話題になっているが、あれは「制度的な義務」以上に「放置された悲劇」が多すぎた結果だ。特に地方では、土地が放置されたまま何十年も経過していることが多い。私の地元も例外じゃない。登記簿を見ても「この人もういないよ」というケースばかり。自分の家族も、そういう“幽霊登記”の一部になりかけていたのだと思うと、ぞっとする。
うちの実家も実は…のパターン
実家の登記簿を確認したとき、父名義のままで、共有持分も昔のままになっていた。権利証もどこにあるのか不明。住所変更も未了で、まさに“依頼者あるある”状態だった。笑えない。自分が依頼者だったら、自分自身に説教したくなるレベル。でもそれが、現実だった。
自分のための登記をして変わったこと
思い切って、自分の家や土地、そして事務所関係の登記をすべて整理し直した。すると不思議なもので、気持ちまで少しだけ整理された。「やっと追いついた」という感覚。事務所のデスクも少しだけ片付いて、仕事にも少し余裕が生まれた気がした。たかが書類、されど登記。自分の人生の棚卸しでもあったのかもしれない。
なぜか事務所も気持ちも整ってきた
登記を整理したら、なぜか事務所の空気も変わった。事務員の彼女が、「先生、最近ちょっと余裕ある顔してますね」と言った。大きな変化ではない。でも、長年抱えていた「やらなきゃ」という小骨が取れたような、そんな感覚があった。結局、自分自身の足元が整っていなければ、人の案件にもしっかり向き合えないんだと気づかされた。
自己肯定感と登記簿はつながっている
これは大げさに聞こえるかもしれないけど、「登記簿に自分の名前がちゃんと載っていること」は、自己肯定感と密接に関係している。放置されているものがあると、どこか心がざわつく。反対に、自分で自分の権利や責任を整理できていると、自然と前向きな気持ちがわいてくる。書類1枚で、こんなに気分が変わるとは思っていなかった。
まとめ登記だけじゃなくて気持ちの整理も
司法書士として、人の登記をたくさん扱ってきた。でも、自分の登記には向き合えていなかった。それが変わった今、ようやく自分の人生も整理できた気がする。登記は単なる書類手続きじゃない。自分の気持ち、自分の立場、自分の責任を見つめ直す機会にもなる。そう思えたことが、なによりの収穫だった。
忙しさの中で自分のことは一番後回し
独立して十数年。忙しさを言い訳に、自分自身のことはいつも後回しにしてきた。でもそれでは、何も前に進まない。クライアントには「先延ばしにせず今やりましょう」と言うくせに、自分には甘かった。でももう、言い訳はしないことにした。
でもたまには、自分の登記簿を開いてみよう
毎日人の登記を扱うなら、たまには自分の登記簿も開いてみてほしい。名義、住所、共有者、更新日。見慣れているはずの書類に、自分の人生の一部が眠っているかもしれない。私たち士業こそ、自分のための登記にもっと目を向けてもいいんじゃないかと思う。