休みが合わないだけなのに 心が離れていく気がした

休みが合わないだけなのに 心が離れていく気がした

予定を合わせるだけなのに どうしてこんなに難しい

司法書士という仕事は、スケジュールが読めない。これは言い訳ではなく事実だ。依頼が急に舞い込めば、日曜だろうが夜だろうが対応しないといけない。だから、誰かと会う「予定を合わせる」という行為が、どうにもハードルが高い。昔付き合っていた人と約束をするたびに、「今度こそ大丈夫だ」と思うのに、仕事が入る。その繰り返しだった。別れ際に彼女が言った、「休みが合わないだけなのに、こんなに気持ちが離れるなんてね」という一言が、今でも胸に残っている。

平日昼の自由時間と世間の休日のズレ

平日の昼間にふと空いた時間、誰かと会おうと思っても、みんな当然ながら仕事中。逆に、土日に友人や知人が遊びに行っているSNSの投稿を見ると、自分だけ置いてけぼりをくらった気になる。こんなに時間を調整しても会えないなんて、努力が足りないのか、それとももう望まれてないのかと自分を責めたこともある。カレンダーが同じでも、生きているリズムが違うというのは、こういうことなのかと痛感する。

司法書士のスケジュールは曖昧すぎる

たとえば月曜に登記申請をする予定だった案件が、急に金曜にずれ込んだとする。そうなると、その週末は準備に追われる。予定していた食事の約束も、キャンセルせざるを得ない。事前に「予定が入るかもしれない」と言っておいても、「また?」という反応に傷つく。そう、こちらは仕事でしかない。でも相手にとっては「また会えない」という失望。曖昧なスケジュールは、曖昧な信頼関係に変わっていく。

「午後から空きます」が通じないもどかしさ

「午後から空きます」──この一言が、どうにも伝わらない。一般的な会社員なら、「午後から」ってことは15時か16時以降。でも司法書士の「午後から」は、13時過ぎには動けることもある。でもその説明からしないといけないし、説明すればするほど「面倒くさい人」になる。何度も試したけれど、結局、理解を求めるより黙る方を選んでしまう。そこに「もう合わせる努力はしてないよね?」と言われると、返す言葉がなかった。

日曜に働くと決めたのは自分だけど

自営業の強みは、働く日を自分で選べること。でも裏を返せば、働かないと収入がない。日曜も開けているという事務所の方針は、自分が決めた。でも、日曜に誰かと会う機会を逃すたびに、「この選択は間違いだったのか」と自問するようになった。事務所を守ることと、自分の人間関係を守ることは、どうしてこんなに両立しないのだろう。どちらも大切なはずなのに。

「忙しいのはわかるけど会えないね」の一言が刺さる

「忙しいのはわかるけど、結局会えないね」──これ、すごくよく言われた言葉だ。でもこの一言、正論だから余計に痛い。自分だって会いたい。でも約束して、守れなかったときの申し訳なさを思うと、最初から誘えない。気を遣わせてしまうより、我慢した方がいい。そう思って黙っていると、相手の方から距離を置かれる。まるで、自分が会いたくないかのように見えるのが、またつらい。

疲れてる時に限って連絡が減っていく

夜遅くまで働いた日、ふとスマホを開くと、未読のままのメッセージ。返信をしようとするけど、指が止まる。「今更返すのもどうかな」「疲れてるって思われたくないな」そんな風に考えてしまって、結局返せない。そして数日後、「最近連絡ないね」と返ってくる。自分の疲れと、相手の寂しさが、すれ違いを生む。分かってるのに、なぜか解決できない。

気を遣われる側の孤独

「忙しいでしょ?無理しないで」と言われると、ありがたいと同時に、距離を感じてしまう。「気を遣われる=もう誘われない」の図式が出来上がっていく。でも自分から誘う余裕もない。誰かに甘えたいけど、甘え方も忘れてしまったような感覚になる。結局、独りで回し続ける事務所の机に戻って、目の前の仕事を淡々とこなしてしまう自分がいる。

「また連絡するね」が本当に来たことがない

「また連絡するね」って言葉、何回聞いたかわからない。だけど、本当に連絡が来たことはほとんどない。あれは、相手の優しさなのだとわかっている。でもその優しさが、「待ってていい」という期待に変わってしまう自分がいる。そして、気づけば一週間、二週間……こちらから連絡しても返ってこない。その繰り返しが、関係を消耗させていく。

友人関係にも影を落とす不規則な生活

社会人になってからの友情は、定期的な食事や連絡でつながっていくものだと思う。でも、その「定期的」が一番難しい。何度か誘いを断ると、「こっちからはもう誘わない方がいいかな」と思わせてしまう。友達づきあいにおいても「こいつは誘っても来ないやつ」と認定されてしまうと、そこから関係を修復するのがとても難しい。時間よりも信頼が減っていく感じだ。

誘いを断り続けた末の「そっか、じゃあまた」

「そっか、じゃあまた」──この言葉も、実は終わりの合図だったりする。「また」は来ない。そのことに気づくのはいつも遅い。断りたくて断ったわけじゃない。でも、その背景をいちいち説明するのも、野暮に思えてしまう。「そういう仕事だから仕方ない」と思ってもらえたらいいけど、みんなそんなに優しくない。そして、自分もまた、説明を面倒に思うくらいには疲れていた。

結局 予定よりも気持ちがすれ違っていく

最初は予定のすれ違いだったはずが、気がつけば気持ちのすれ違いに変わっている。会えないことそのものよりも、「なぜ会えないのか」を互いに理解しきれないことが、大きな壁になる。「仕方ない」と「寂しい」の間に、橋をかけるのはとても難しい。そして、気がつけばその橋は崩れていた、なんてこともあるのだ。

相手の「会いたい」は予定じゃなくて心

相手が求めていた「会いたい」は、日程調整の話じゃなかった。ただ、顔を見て、声を聞いて、同じ空気の中で過ごすこと。それができないことで、「この人は私に会いたくないのかな」と思わせてしまう。自分は「来週の木曜なら…」とカレンダーを見ていただけで、その気持ちに気づくのが遅かった。遅れた想いは、届かない。

こちらの「会いたい」は空白のマス埋め

「空いてる日、どこだろう」と、スケジュール帳を睨む。それは愛情からではなく、空白の時間を埋めるための動きだったかもしれない。気持ちはあった。でも、行動に出たときには、相手にはもう気持ちが残っていなかった。予定に追われる日々の中で、愛情まで事務処理のように扱っていた自分がいたことに、後から気づいて苦しくなった。

会えないことより、想像の中で距離ができるのがつらい

「何してるんだろう」「もう誰かと会ってるのかな」そんな想像が、会えない日々の中で膨らんでいく。会えないこと自体は、案外耐えられる。でも、相手の心が離れていくのを想像してしまう自分が、一番つらい。実際に離れているわけではないのに、自分の中で勝手に距離を作ってしまう。そして、それが現実になる。想像は、時に現実を追い越していく。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。