今日も自炊できなかった夜

今日も自炊できなかった夜

気づけばまた外食で済ませてしまった

今日は絶対に作るつもりだったんですよ。朝の時点では「今日は夕方に時間があるし、簡単な野菜炒めくらいならいけるだろう」なんて思ってたんです。でも、気づけば19時を過ぎていて、目の前にはいつものコンビニ。これで何日連続だろうって数えるのも嫌になって、もう今日は「考えないこと」にしたんです。料理をしない自分に甘いのはわかってるけど、疲れた心に鞭打つ元気がない夜って、あるんです。

冷蔵庫の食材がプレッシャーに変わる瞬間

買っておいたピーマンと鶏むね肉が、もう4日目を迎えてます。ドアを開けるたびに「早く使えよ」と無言の圧を感じるようになりました。食材は悪くない。むしろ、ちゃんと準備した数日前の自分を褒めてあげたいくらいです。なのにその思いを踏みにじるように、今日もラップにくるまれたまま放置。罪悪感だけが冷蔵庫から出てくるような気さえします。

賞味期限とにらめっこしているのに何もしない

見なければいいのに、つい見てしまうんですよね、あの「〇月〇日」ってやつ。まだ間に合う。でも今日は無理。明日ならなんとか…。こうやって言い訳を並べてる間に、刻一刻とその日が迫ってきて、結局間に合わず廃棄。料理って、「気持ちが整ってないとできない家事」だなって、最近つくづく思います。昔は気合でどうにかなったのに、今はそれが通用しない。

「明日こそやる」の明日がいつまでも来ない

これはもう完全に自炊あるあるです。「明日こそ作ろう」って誓う夜は、だいたい1日中疲れ切ってる日。眠いしやる気もゼロ。でもそこで希望を残すように、明日の自分にすべてを丸投げ。でも現れる明日の自分も、やっぱりやらないんですよ。疲れてるし、面倒だし、コンビニあるし。気づけば自炊という言葉が頭の辞書から消えかけてます。

仕事終わりのやる気はどこに消えるのか

朝はやる気があるんですよ。昼くらいまでは「今日は19時に切り上げよう」とか思うんです。でも、午後になると急な相談、電話、登記の確認、法務局とのやりとり。どんどん積まれていくタスク。17時には「今日もダメだな」と悟ってることもある。結局、事務所を出る頃には空腹と疲労だけが残って、自炊なんて言葉はどこか遠い存在になります。

案件がひと段落してもなぜか心が軽くならない

「一区切りついたら気が楽になる」って、ずっと思ってた。でも実際には次の案件の準備が頭をよぎって、開放感は一瞬だけ。しかも自分一人でやってるから、気を抜いたらすぐ遅れが出る。結局、心が休まる時間って意外とないんですよね。疲れて帰って、キッチンに立つ気力が残ってないのは、そのせいもあるかもしれません。

自炊よりも洗い物のことを考えてしまう

正直言うと、料理自体はそこまで苦じゃない。でも洗い物が本当に嫌なんです。フライパン、まな板、包丁…食後にそれらがシンクに並んでる未来を想像した瞬間、萎える。だから、結局お弁当のパックをゴミ箱に捨てる方を選んでしまう。これは単なる怠慢かもしれないけど、疲れた夜には「洗い物しなくて済む選択」がいちばんの癒やしになってしまう。

食事に罪悪感を抱く日々

人は食べることで生きてるのに、食べるたびに申し訳ない気持ちになるのは変な話です。でも、自分で作ってない、栄養も偏ってる、使い切れない食材をまた無駄にしてしまった…そんな後ろめたさがついて回るんです。外食が悪いわけじゃない。ただ、ちゃんとした暮らしをしていないような自分を突きつけられてる気がして、落ち込むこともあります。

栄養よりも「手軽さ」が勝つという現実

今日はサラダくらいは買おう、と思ってコンビニに行ったのに、選んだのは唐揚げ弁当とスイーツ。なんだかんだで「腹が満たされるか」が一番優先されてしまう。健康を気にする余裕もないし、栄養バランスを考える気力もない。わかってるんです、それじゃダメだって。でも、そのダメさを抱えてでも食べるしかない。生きるって、地味にそういう繰り返しなのかもしれません。

弁当の蓋を開けながら自分を責める

パカッと蓋を開けた瞬間、「あーあ、またやっちゃったな」って思うことがあります。茶色一色の中身を見て、これじゃ体に良くないよな…とか考えながら、でも食べないわけにはいかない。忙しさのせいにしてるけど、本当は少しの工夫で変えられるのかもしれない。それでも、今の自分にはこの茶色が心地よかったりするのも事実で、その矛盾にモヤモヤします。

誰かが作ってくれるごはんが恋しい

昔、実家で母が作ってくれたごはん。文句ばかり言ってたけど、今になってどれだけありがたかったかが身に沁みます。帰ったらごはんがあるって、すごく贅沢なことだったんですよね。一人暮らしになってからというもの、誰かに作ってもらえる機会なんて皆無。惣菜コーナーでおばちゃんが盛り付けてる姿を見ると、妙に羨ましくなるのは、自炊よりも「誰かの手間」が恋しいのかもしれません。

人の温かさってこういうときに染みる

たまに知り合いが差し入れてくれるおにぎりや、事務員さんが持ってきてくれる手作りのお菓子。そういうのが妙に美味しく感じるのは、味以上に「気持ち」が入ってるからだと思う。栄養とかカロリーとかじゃなくて、「自分のために誰かが手間をかけてくれた」っていうのが、沁みる。きっと、今の自分に足りないのは、そういう「誰かの手間」なんだと思う。

自炊できない自分を責めすぎる夜

できない日があっても、またやればいいだけ。それは頭ではわかってるんです。でも現実には「またやらなかった」と自分を責めてしまう。自炊ひとつできないなんて、だらしないのでは?と思ってしまう。だからこそ、そんな自分に対して少しでも優しくなれたらいいなと、この記事を書きながら思っています。

「できない自分」に慣れてしまった感覚

何度も自炊に失敗してると、次第にそれが当たり前になってきて、「まぁいいか」と受け入れてしまう自分がいる。でも、それが本当に自分が望んでいる姿なのかと問われると、答えに詰まる。楽しているようで、どこかで心が疲れている。そんな不安定な気持ちを、食生活が映し出しているのかもしれません。

努力してないわけじゃないけど続かない

自炊の習慣化って、ダイエットや運動と似ていると思います。続ければ効果が出るのはわかっている。でも、日々の忙しさやメンタルの揺らぎで、あっさり崩れてしまう。しかも一度崩れると戻すのが難しい。意思が弱いわけじゃないけど、続けるって本当に難しいことなんだと、40代になって改めて感じています。

自己肯定感がコンビニで下がる不思議

コンビニは便利で助かる存在なのに、利用するたびになぜか自分を責めてしまう。今日もまた手抜きだ、と。買い物袋を下げて歩く帰り道に、どこか虚しさがある。便利さに感謝しながらも、「これでいいのか」と自問する夜が続くと、少しずつ自己肯定感が削れていくような気がします。

レジ袋の中に詰まってるのは敗北感

温かいお弁当とペットボトルの水。栄養は足りている。でもレジ袋の中に詰まってるのは、それだけじゃない。今日はまた一歩、自分の理想から遠ざかったような敗北感。些細なことだけど、積み重なると心にじわじわ効いてくる。だから、自分を責めすぎないために、明日も小さな希望だけは持っていたいと思う。

それでもまた明日が来る

自炊できなかった日も、自分を責めすぎた日も、夜はやってきて、そしてまた朝が来る。生きてるだけで偉い。そんな言葉を笑う人もいるけど、ほんとそう思う。毎日、何かしら頑張っている自分に、「今日もおつかれさま」と言ってあげたい。自炊ができなかった日も、きっと何かを乗り越えてるんだから。

失敗しても日々は続いていく

食材を無駄にしてしまった日も、疲れて寝落ちした日も、それで人生が終わるわけじゃない。明日また作ればいい。今日できなかった分、明日はちょっとだけ頑張ればいい。そんなふうに考えるようになってから、少しだけ自分を許せるようになった気がします。

誰かの完璧さに焦らなくてもいい

SNSを見てると、自炊してる人、ちゃんと生活してる人がたくさんいて、自分だけが取り残されてるような気持ちになります。でも、他人と比べても仕方ない。自分のペースでいい。完璧じゃなくていい。そう思える日が、少しでも増えたら、それだけでじゅうぶんじゃないかと、今は思います。

共に頑張る誰かへのささやかなエール

もしこの記事を読んでくれているあなたが、同じように「今日も自炊できなかった」と思ってるなら、それはあなただけじゃないって伝えたい。自炊ができなくても、人に優しくできれば、それは立派なこと。疲れてもなお、生きようとしてるだけで、ほんとうにすごい。そんな自分を、どうか否定しないでください。

こんな日もあるよって言える自分になりたい

すべてがうまくいかない日もある。でも、そんな日も含めて、人生なんだと思います。自炊をサボった夜も、いつか笑って話せる日が来ると信じて。僕自身、まだまだ理想とは程遠いけれど、少しずつ、自分と仲直りしていけたらいいなと願っています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓